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俳句のいさらゐ ▰⋄▰ 松尾芭蕉『奥の細道』その八。「庭掃て出でばや寺に散柳」

🌀 曽良との別離の情が句の裏にある

『奥の細道』の芭蕉の句は、おそらく自然詠の句の方が取り上げられることが多いだろう。しかし、ある人物を讃えたり偲んだりした句にも、句の裏には幾重もの意味が読み取れる深い思慮があって、さらりと通り過ぎるわけにはゆかない。
今回考察する「庭掃て出でばや寺に散柳」は、分類すれば自然詠になるが、この句は長き旅の道連れ曽良と別れたばかりの、芭蕉の寂しさを抜きにしては読み取れない句だと思う。
逆に言えば、曽良との別れが前日 ( 元禄2年8月5日 ) になければ、「庭掃て出でばや」という気持ちを表に出すことはなく、「散柳」に思いを重ねることもなかった、とさえ思う。

曽良と二人連れで続けて来た『奥の細道』の旅は、山中温泉を最後に終わった。曽良は病気を癒すために、伊勢の国長島へ去る。芭蕉は、その悲しみを

今日よりや 書付気消さん笠の露

と詠んだ。この句については、「俳句のいさらゐ」シリーズの以前の記事で解釈した。要約再掲する。

句境が最高の昂ぶりを見せる平泉の段にこういう文がある。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて時の移るまで泪を落とし侍りぬ。
この平泉での笠に対応させて、曽良との別離において再び笠を出している。
落涙する場の多い『奥の細道』であるが、この場面の「泪を落とし侍りぬ」は、文飾とは思えない。はるばる平泉まで ( ※旅の大きな目的の一つは平泉を訪れることであった ) 足を延ばし、古人の情を身にひしひしと感じながら、放心したようにあなたと二人いたのでしたね、という感動を共にした悦びの気持ちが、露に濡れた笠に託して閉じ込められている。
私とあなたの二人であればこそ出来た、長かったみちのく行脚はここで終わったのだ、これからあともまだ私は一人で歩かなければならないが、それはただ漂泊を終え、日常の暮らしへと戻るだけの、これまでとは別物の旅にすぎない、という芭蕉の表意であり宣言の句である。
だからこそ、もう笠に書いた「同行二人」の文字は、消すべきなのだと言うのだ。
これは、旅を共にしてきた者への、これ以上ない愛情に満ちた句である。あなたといた時間だけが、私にとって意味のあるすばらしい旅だった、と言っているのだから。

「俳句のいさらゐ/松尾芭蕉と最も幸福な門人曽良」より要約抜粋

その気分を引きずって、全昌寺 ( 石川県加賀市大聖寺町の曹洞宗寺院。山中温泉の和泉屋の菩提寺で、宿の紹介だったようだ ) に泊まった。
「曾良も前の夜、此寺に泊て 《 終宵(よもすがら ) 秋風聞やうらの山 》 と残す。一夜の隔千里に同じ」と『奥の細道』にある。
「一夜の隔千里に同じ」という表現には、昨日までの日々がいっきょに遠のいてしまったような万感の思いが滲んでいる。

全昌寺偶景 1963年 淡交社 西宗誠 写真「奥の細道 : カメラ紀行」より転載

🌀 曽良はもういないと、自身に言い聞かせている

そして、二夜の宿りが明けて、全昌寺を去るときの光景が

庭掃て出でばや寺に散柳

の句である。
「庭掃て出でばや」は、二夜の宿りのお礼に庭を掃いてこの寺をあとにしよう、という心だが、庭を掃くという行為に、同行者以上の存在であった曽良がもういないのだから、気持ちをしっかり立てて、清新な思いで今日からの旅を踏み出さなくてはいけない、という思いをこめていると思う。
「庭を掃く」という表現には、旅の間曽良がいてくれたために、知らず知らず持っていた甘え、依存心、過ぎた欲求、短気ゆえの怒りなどを今ここから捨てなければいけないという、自責の感情が見えていると言える。
単に、気配りも受け、気持ちのいい宿所であったという感謝の思いをいうために用いた措辞ではない。

枝垂れ柳 「庭木図鑑植木ペディア」より

そして「散柳」は、晩のうちに柳が散って、美しく整えられていた庭の清浄が今朝は損なわれている、あるいは、今まさに散りつつあるという情景描写だけには留まらない。
曽良のことだから、念入りに庭を掃いてここを後にしていったことだろうなあ、無事長島までたどり着くだろうかという、何を見ても感じ入って泣きたくなってしまいそうなナーバスな思いを伝えているだろう。

🌀 曽良を気遣う思いが、それまでの句にも潜んでいる

芭蕉は、旅が後半になるにつれて、曽良の最後までの同行は望めないことをうすうす意識しつつあったと思われる。それは、曽良の体調が不調である様子を見てきているからだ。
曽良は、金沢では句会も遅れて出て、さらに中座したりしている。曽良自身は随行日記には、自身の体調下降のことには触れていないが、芭蕉がわざわざ「曾良は腹を病て」と虚構のことがらを書き添えることはあり得ない。
誰も言ってはいないが、金沢を出ての途中吟

あかあかと日は難面も秋の風

には、苦しそうな曽良の姿が、句の趣に映っているように感じられる。あかあかと照る残暑の日が、曽良にはことに応えているのだろう、私の世話役として気遣いが重なった心労( 胃痛 )だろう、という思いやりが潜んでいる句と思われる。
芭蕉は、「曽良よ、秋風も立ち、夜は過ごしやすくなってきた。日中の暑さに悩まされることも熄んでくるだろう。難所は抜けて来た。山中温泉でしばらく休もうではないか」というような、優しい言葉をかけたのではないだろうか。その言葉を思い、曽良は、師と別れて先に進んだ夜の思いとして、「終宵秋風聞やうらの山」と詠み、句の中に、返しとして《秋風》を用いたように思う。《秋風聞や》には、旅の日々の、もろもろの師の言葉を脳裏に聞いている意味も含ませているはずだ。

温泉イメージ

そして、これも「俳句のいさらゐ」の以前の記事で述べたことの繰り返しになるが、山中温泉での句、

山中や菊は手折らぬ湯の匂

にも、芭蕉自身が湯の効用を喜んでいるというよりは、いい湯なのだからゆっくり休もうや、と曽良に伝えているような雰囲気を私は感じ取る。

                                                      令和6年2月     瀬戸風  凪
                                                                                            setokaze nagi



 


 




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