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俳句のいさらゐ🌾🌾🌾 松尾芭蕉 杉風宛書簡の句より。「世を旅に代(しろ)かく小田の行きもどり」


◧ 書簡の宛先、杉山杉風(すぎやま さんぷう)という人

元禄7年閏5月21日 ( 1694年 ) 、芭蕉51歳の書簡に添えられた句である。
宛てた相手は、杉山杉風(すぎやま さんぷう)。幕府の御用商人で、鯉屋という屋号の魚商。したがって豊かな財力の家だった。盤石の経済基盤を背景に、自らも俳諧を嗜む俳人でありながら、終生芭蕉には欠かせざる支援者であり、また蕉門の世話役、重鎮であり続けた。正保元年 ( 1644年 ) 生まれの芭蕉よりは3歳ほど若い。
句の意はこういうことだ。
俳諧の道を選んだことで、私の人生は、田植えの前に土均しとして、田の中を何度も行き戻りして田おこし作業をするのと同じように、旅に出ては戻りの繰り返しであったことだ ( そういう営みが、はたしてよき稲 ( =俳句 ) を実らせててくれただろうかという自問の意が読みとれる )

この書簡の時点で、二人が知り合ってから22年の歳月が過ぎている。俳諧に打ち込んできた人生を顧みるには充分の歳月であり、その感懐を示すのに最もふさわしい人が杉風であったと言える。
寛文12年 ( 1672年 )芭蕉29歳、確証はないようだが、芭蕉が初めて江戸へ入った時に杉風方に住んだとみなす説もあり、芭蕉33歳の延宝4年 ( 1676年 )には芭蕉の帰郷に当たり、杉風と両吟歌仙を巻いているから、杉風は芭蕉の門弟のうち最古参である。

元禄7年は閏年で、太陰暦では同じ月を二回繰り返すため、5月が2回あった。つまり閏年は、1年13カ月になる。元禄7年5月11日には江戸にいて、伊賀上野へ出立している。
伊賀上野に着いたのが、5月28日。それから半月余り故郷で過ごし、同年二度目の5月である閏5月16日には、伊賀上野を出ている。書簡を出した日は、深く信頼する膳所の門人、菅沼曲水宅に滞在中。
まさに、「代 ( しろ ) かく小田の行きもどり」と、自分の一所不在の生涯を喩える気持ちになるのもむべなるかなと言える旅の連続である。

この句の類想として、芭蕉には下に挙げた俳句があると思う。
「旅人とわが名呼ばれん初時雨」  芭蕉  1687年 44歳  
「狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉」 芭蕉 1684年 41歳
上の句の竹斎は、狂歌を詠みながら放浪の旅をした医者。

画・杉山杉風  亡師芭蕉翁之像

◧ 浮かんで来る『奥の細道』の句

田仕事の風景が詠まれていることから思うのは、『奥の細道』の旅から帰って「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」や「風流の初めや奥の田植歌」などの句を推敲するうちに、これまでの漂泊の中で見聞して来た田仕事にまつわる事柄が、芭蕉の脳裏に象徴性を持って浮かび上がってくるようになっただろうということだ。
この「俳句のいさらゐ」シリーズの「奥の細道」篇で、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」をこう読み解いた。再掲する。

田を植え今日はここまでと帰って行った彼らには、さらに明日も田植えを続け、それからは田に水を涸らさず、草をむしり、害虫を除き、啄みに来る鳥を追い、やがて稲を刈る時を迎えるというやむことのない農作業がある。けれど私はこの先も、風に揺れる柳のような漂泊の思いとともに、何が得られるともわからない、いつ果てるのかも見通せない旅を続けてゆくだけなのだなあ、自ら望んだことながら。

筆者の記事 「俳句のいさらゐ」松尾芭蕉『奥の細道』その一より 抜粋

「世を旅に代 ( しろ ) かく小田の行きもどり」の句からは、表向きの自己戯画化の裏に、この句が、やがて門人や同好者に伝わってゆくであろうこと前提に、杉風に託した次のような思いが私には見えて来る。
先年の奥州の旅に見た寸景ながら、俗世の価値から言えば、田一枚植えることにも如かずと思いもした俳諧文芸の道だが、生涯を託して来たその道においても、後世に伝わるだけの仕事をしたかどうか、私自身に冷静には見えてこない、しかし、俗念で硬直した俳諧風土の、干からびた田地に鍬を入れ、新鮮で豊穣な作物が生る土壌は作ってきたつもりだ、私の仕事の意味を評価するのも、発展させてゆくのも、あなたがたのこれからの営みにかかっている、それを期待する。 

上に述べた見方をすれば、句で表現した代 ( しろ ) とは、田であると同時に世なのだ。世の通念、固定観念を耕し返す、という思いを、田をおこす、という動作に通わせている。

杉風宛 元禄7年9月10日日付 芭蕉書簡

◧ 俳諧の同士、杉風との歳月を肯首自賛する句でもある

芭蕉は、この書簡を出したあとも上方各地の漂泊をかさね、元禄7年のうちに大坂で没した ( 元禄7年10月12日逝去 )。
この書簡は最後の書簡ではなく、数通杉風宛ての書簡がこのあとにあり、「柳行李片荷は涼し初真桑」「六月や峰に雲置くあらし山」などの句を添えているが、私には、心の隅で、しのび寄る死の影を自覚しつつあった芭蕉が、境涯を顧みて若き日からの付き合いであり、筆頭門弟と言っていい杉風に、あなたと私は長い歳月、こういう営みをして来ましたね、と語りかけたのが「世を旅に代 ( しろ ) かく小田の行きもどり」の句であったと思う。
そして、他のどの句よりも、大事な門人杉風に渡した別れの句の趣を帯びている。

◧ 芭蕉の死ー杉風落涙の姿が目に見える

杉風には、名宛てで遺状がある。以下の文である。
「一、杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れがたく存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞い致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。いよいよ俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみに成さるべく候。」
言葉は短くとも万感胸に詰まる一文で、これを読んだ杉風が、滂沱 ( ぼうだ )の涙を流したであろうと容易に想像できる。

                令和5年4月     瀬戸風   凪
                                                                                                 setokaze nagi
 


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