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俳句のいさらゐ ◬∬◬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二〇。「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ」

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の 湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。
 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
 暑き日を海にいれたり最上川 

松尾芭蕉『奥の細道』より

「あつみ山」は、漢字表記では温海山。わかった上でひらがな表記にしているはずだ。その理由は、「温海山」とすれば、あとの俳句を「暑き」と始めているので、「温」「暑」が字面的にひっかかりを感じさせるために、あえてあとの俳句の「暑き」と音で重なるように「あつみ」と表記している。
また、そうすることで、「あつみ山」が「暑き日」を呼び起こす効果を意図し、翻って「あつみ山」の字句にも、暑さのイメージがこもっているように感じ取れるという効果もある。

さらには、「あつみ山」の《 あつみ 》は、原義は《 温海 ー あつうみ 》でその音転で《 あつみ 》と発音するようになったものであるから、暑き日を海に入れたらこれこそ《 温海 ー あつうみ 》になるなあ、という諧謔も潜ませているのではないだろうか。
それらの意味で、あとの俳句「暑き日を海にいれたり最上川」は、前の俳句に響いているわけだ。

「あつみ山」と「吹浦」。
このふたつの地名を選んだのは、どうしてもその地名にしたかった理由があってのことと思う。

まず「あつみ山」の方から。
「あつみ山」は温海嶽というのが正確な地名で、そこには熊野神社が祀られている。この温海嶽熊野神社の創建には複数の説があるようだ。
ひとつは白鳳元(672)年、壬申の乱のあった年で、役行者が霊夢により温海嶽山頂に由豆左売神を勧請したのが始まりというもの。 ( 温海嶽熊野神社ホームページより )
また別の説では、養老五(721)年に、僧行基が温海嶽山頂に紀伊国熊野神社より熊野権現を勧請したともいう。
私が名に目に留めるのは、後説の行基の方だ。
というのは、『奥の細道』で、芭蕉の関心として行基の名が出て来る下りがあるからだ。須賀川で詠んだ俳句「世の人の見付ぬ花や軒の栗」のところである。

行基菩薩の一生。杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。

松尾芭蕉『奥の細道』より

また、『奥の細道』には記述がないが、曽良の随行日記にはこうある。

四月弐壱日  ( 4月21日 )
ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。

曽良の随行日記より

この関山行きは、麓まで宿より一里半で6キロ、さらに峰まで十八丁というのだから、約2キロの距離である。参道への山歩きを含め往復距離16キロ。よほど行基ゆかりの寺、成就山満願寺を参詣したかったと思うしかない行動だ。
この日は辰の上刻( 午前6時前 ) に活動を始めている。成就山満願寺を参詣後、四里ほど離れた矢吹に午後5時過ぎに到着している。成就山満願寺参詣に一日を費やしたと言える。

芭蕉はそれほどまでに行基には関心が深かったことを語るだろう。その人物を慕っていたと言えるありようである。ゆえに、温海嶽すなわち「あつみ山」が、行基のゆかりの山である説の温海嶽熊野神社の縁起を誰かから聞かされて、俳句に「あつみ山」と詠みこみたくなったと想像する。
伝えた候補者は、一人が「長山氏重行云物のふの家にむかへられて」とある酒井藩士長山重行。もう一人は、「左吉も共に送りぬ」と記述されている左吉=芭蕉門人の呂丸 ( 羽黒山下の染物屋 ) 。さらにもう一人は、「淵庵不玉と云医師の許を宿とす」とある不玉 ( 俳号 ) = 伊東玄順。
この俳句は、酒田に着いたあと、象潟を訪れて帰る途中の吟ということだから、酒田の人、不玉 ( 俳号 ) = 伊東玄順も候補者に入るわけだ。

次には吹浦の方。
吹浦には、西暦878年 出羽の北辺に蝦夷の大乱が起こり、朝廷は、それを鎮めるための祈願に、地の神である大物忌神( 酒田の霊峰鳥海山の神 )と月山神、その両神に、租・庸・調といった供物等を寄贈して、この地吹浦に勧進し、神社を立てたという伝説がある。
月山は、酒田に下って来る直前にすでに訪れている。鳥海山は実際に眺め、『奥の細道』の象潟の章で、「雨朦朧として鳥海の山隠る」と述べている。それから思えば、大物忌神と月山神の話は旅の中で、当然聞いているだろう。あるいは、先に挙げた人の誰かからも聞いたかもしれない。

上のことを念頭に考えると、象潟からの帰路、最上川河口の袖の浦から眺めている景色の雄大さをいうために、遠景の場所としての「あつみ山」と「吹浦」を詠みこんだというのでは腑に落ちない。
あるいは、暑さを吹く風の意味の隠しことばを意図して選んだというのも、いかにも陳腐である。

地図で位置関係をいうと、「あつみ山」は酒田よりも鶴岡よりも西に下り、「吹浦」は酒田より北、鳥海山の麓である。地図で見るとこの間は、約50㎞は離れている距離で、そこから考えても、実際に見える場所の地名を詠みこんだというリアリティよりも、芭蕉が心の内に描いているパノラマという趣が強いように思う。
一方に見えるは僧行基ゆかりの山、もう一方は、大物忌神 ( 酒田の霊峰鳥海山の神 ) と月山神両神を勧進し神社を置いたという伝説の浦という、大景の広がりの中にいるのだ、という幻想感・高揚感を伴った俳句であろうと思う。

以上のことは行基にしても両神を勧進した神社のことにしても、俳文では述べてはいないので、証拠はなく、私のゆるやかな想像でしかないのだが、漫然と風景を眺めるだけでなく、旅行く先々の故事、縁起には大いに関心を持っていた芭蕉が、折に触れて人に聞きもし、周囲も芭蕉を喜ばせるために語ったであろうことは疑いない。
上に述べた解釈をすれば、「暑き日を海にいれたり最上川」の方も、今現在の嘱目というより、伝説の世界にまで届く、長い歳月の自然の営みの繰り返しに思いをはせている俳句に感じられてくる。

             令和6年6月       瀬戸風  凪
                                                                                            setokaze nagi






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