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俳句のいさらゐ ❂◙❂ 松尾芭蕉『奥の細道』その十二。「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ「短冊得させ
 よ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと

 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

松尾芭蕉『奥の細道』より
(門人) 杉山杉風筆 芭蕉画像

🔶「走馬看花聞香下馬」の思い

「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」
この句から先ず連想するのが芭蕉の次の句だ。

いざ行む雪見にころぶ所まで     芭蕉『笈の小文』より

上に引いた「いざ行む」の句は、まるで童子のしぐさのような滑稽な姿を詠んで、ややおどけている。心の弾みをそれで示しているのだ。
『奥の細道』の「野を横に」の句にも、この無鉄砲さに通うおどけぶりが、かすかに含まれていると私には感じられる。
「野を横に」は「野の横道方向に進もう」という意で、つまりは、横道に逸れて、( 馬の鼻先をそちらの向けて ) しばしこの辺のほとゝぎすを楽しもう、ということだろう。
それは行くべき方向から外れても、先を急がず、今はこの美しい鳴き声を聞いていたいものだなあ、ほとゝぎすの声を追いかけて、その方向へ行ってみようじゃないか、なあ馬子よ、と無理を承知で言っている ( 言ったことにして詠んでいる ) わけだ。
「走馬看花聞香下馬」という中国の故事由来の成句がある。急いで通り過ぎては見過すものがある、ゆっくりして心の耳目をひらけ、といった意味にもなる成句だ。芭蕉のこの句が示すのは、それに近い気持ちの表出とみてもいいだろう。

旧奥州街道偶景 1977年 栃木県文化協会「下野のおくのほそ道」より

🔶🔷旅の工程から詠まれた句の状況を探る

しかし、曽良の『随行日記』から当日の行程を見ると、これが諧謔であるのがわかる。何せ、下野の国 ( 現在の栃木県 ) の荒蕪の野原のただ中を行くのがその日の移動で、黒羽藩家老である浄法寺図書が世話してくれた次の宿まで、日の暮れないうちにたどり着かなければならないのだ。『奥の細道』の旅は、物見遊山も含んで歩く日とひたすら移動する日があるが、この日は後者である。

曽良の『随行日記』から、背景をまとめてみよう
〇  太陽暦6月3日 午後より黒羽の余瀬という処から出発。晴天。
〇  黒羽で芭蕉を迎え世話をした黒羽城 ( 城はなく館があった ) 館代、黒          羽藩家老である浄法寺図書の家人・弾蔵から馬と馬子がつけられた。
〇  馬と馬子は野間という処まで。此間弐里余。野間からは徒歩で高久ま
   で。 此間壱里半余。徒歩の途中から雨天。つまりその日は、三里半余り
  ( 14キロ~15キロ ) の移動だった。
〇 「是より殺生石に行」と前書きにあるが、
      この句の場面は、殺生石を見た日の行程ではない。
      
殺生石を見たのは、高久よりさらに那須湯本に移動してからのこと。

芭蕉と曽良は、浄法寺図書のねんごろな接待を受けて、黒羽には太陽暦5月21日から6月2日まで滞在している。6月3日は久しぶりの長歩きの日なのだ。それも考慮して、出発の移動初日は足慣らしのために短い距離として、次の宿に高久を選んだのだろう。
無理をしない行程として午後から出立して、14~15キロ移動。それでも、5時間は見なければならない。さらには、梅雨の季節だから、遅滞することを念頭に置いておくのが当時の旅行者の常識だったはずだ。実際当日はそういう天候になった。
のんびりと、横道にそれて、( 馬の鼻先をそちらの向けて ) しばしこの辺りで憩おう、といったことが実際できるわけもなかった。

黒羽の古地図 ( 江戸時代 ) 1977年 栃木県文化協会「下野のおくのほそ道」より

🔶🔷🔶挨拶句としての役割

「馬の口付のおのこ」( 馬を引いて来た従者 ) に請われてこの句を与えたのは、世話になった浄法寺図書が遣わした者なのだから、当然浄法寺図書とその弟翠桃に、その句が伝わるとわかっている上でのことであり、つまりは句には謝礼の思いを込めていると読める。
久しぶりの長歩きで、難渋していないだろうかと心配してくれているはずの心を慮って、こんなふうに長閑な気分で進んでいますよと伝え、何処にあっても、風流の精神でものを感じ取っていると教えているのだ。
それを思えば、挨拶句とはみなされない句ではあるが、その精神が生きている句だと言える。

また深読みすれば、「馬の口付のおのこ」は、浄法寺図書本人か、もしくは浄法寺図書の家臣から、芭蕉翁が途中で何か感興を覚えるようなことがあれば、句を乞うてみるべし、とほのめかされていたのかもしれない。芭蕉には、それはピンと来ただろうが、浄法寺図書には、それくらいの感謝心は示さなければならないと思ったのだろう。
また『奥の細道』の構成を考える上で、馬子が句を乞うたことを、そのまま構成するのが最も面白いと考えた、という見方もあり得るだろう。

🔶🔷🔶🔷殺生石にほとゝぎす組み合わせ

上に列記した背景の項目の中で、私は
「この句の場面は、殺生石を見た日の行程ではない」とした。
確かに、次に訪れた那須湯本で芭蕉は殺生石を見た。しかし、ほとゝぎすの鳴く音を詠んだ句の前書きに、当日のことでもない「是より殺生石に行」の前書きをなぜ添えているのか。

それは、殺生石というおどろしい言葉の響きを、ほとゝぎす、の対照として出し、その組み合わせの面白さを演出しているからだろうと思う。読者には、殺生石とほとゝぎすが同位に並んで映る。
私も、曽良の『随行日記』などを知らないうちは、同日同場所の出来事だと思い読んでいた。いやそうとしか読めない。『奥の細道』だけしか知らない読者は思うはずだ。
殺生石とはいったい何だ?
そんな処にほとゝぎすなのか? 
そういう読者の軽い混乱、ミステリアスな想像を狙ったのが、俳句に交差する殺生石の役割なのだ。
「是より殺生石に行」の前書きで、句も殺生石を詠んでいるのなら順当なのだが、そこをひねって、殺生石とは直接縁もない「野を横に」の句を置いているところが、この句が不思議な立ち位置を持っている理由であろう。
句の後には、俳文紀行らしく殺生石について短い説明を述べて、この段は閉じられる。
殺生石よりも、やはり詠むべきはほとゝぎすですね、という芭蕉の声を、知らず知らず読者は聞くことになるのだ。

🔶🔷🔶🔷🔶類想の句が‥‥

最後に、行け行けどんどん精神とでも称したいような、芭蕉の、滑稽味をかもしたおどけぶりが匂う類想の句を、他にも挙げておこう。

いざともに穂麦喰はん草枕                 芭蕉『野ざらし紀行』より
ゆきや砂むま  (馬 ) より落ちよ酒の酔     芭蕉真蹟詠草

                                                  令和6年3月         瀬戸風  凪
                                                                                                     setokaze nagi

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