俳句のいさらゐ ☯☯☯ 松尾芭蕉と最も幸福な門人、曽良。
扉絵・瀬戸風 凪
🔲🔲 芭蕉の句 笠の露が意味するもの
芭蕉ファンならそのとおり、と言ってもらえるだろうが、曽良が何者かについての推理が、余りに多く書かれ過ぎ、語られ過ぎている。
それを読んだところで、芭蕉と曽良、この二人の俳人を、ありありと感じとることにはつながらない。俳諧の味わいを深くすることとは逆のベクトルである。
最も大事なことは、芭蕉が曽良に、しみじみとしたいい句を与えているということであり、その句が、多くの門人に与えた句の内で、一番やさしく温かいということに注目すべきだ。
その句を挙げる。
今日よりや書付け消さん笠の露 松尾芭蕉 『奥の細道』
『奥の細道』には、この句の前文がある。
「笠の露」は、笠の裏に書付けた「同行二人」の文字を消す手段として、また、別離の涙の形代として使われた表現である、とすべての解説書はいう。それを踏まえた上で、私は、旅そのものを象徴させた表現だと思う。そこに「笠の露」の表現の本意がある。
🔲🔲🔲 みちのく行脚はここで終わった
『奥の細道』の中で、句境が最高の昂ぶりを見せる平泉の段にこういう文がある。
この平泉での笠に対応させて、曽良との別離において再び笠を出している。
落涙する場の多い『奥の細道』であるが、この場面の「泪を落とし侍りぬ」は、文飾とは思えない。
たとえば今日の人の、所要二日ほどの登山でさえ、登頂時には涙があふれてくる体験など思えば、何十日もかけて歩き着いた宿願の場所で、涙がこぼれないことがあろうか、と信じられる。
はるばる平泉まで ( ※旅の大きな目的の一つは平泉を訪れることであった ) 足を延ばし、古人の情を身にひしひしと感じながら、放心したようにあなたと二人いたのでしたね、という感動を共にした悦びの気持ちが、露に濡れた笠に託して閉じ込められている。上に述べた、「旅そのものを象徴させた表現」と考える理由のひとつはここにある。
つまり、私とあなたの二人であればこそ出来た、長かったみちのく行脚はここで終わったのだ、これからあともまだ私は一人で歩かなければならないが、それはただ漂泊を終え、日常の暮らしへと戻るだけの、これまでとは別物の旅にすぎない、という芭蕉の表意であり宣言の句である。
だからこそ、もう笠に書いた「同行二人」の文字は、消すべきなのだと言うのだ。
これは、旅を共にしてきた者への、これ以上ない愛情に満ちた句である。あなたといた時間だけが、私にとって意味のあるすばらしい旅だった、と言っているのだから。
🔲🔲🔲🔲 芭蕉の文に見られる「笠」
芭蕉の『奥の細道』は、これ以降も吉崎、永平寺、福井、敦賀、大垣と紀行が続くので、上に述べた思いは、うがちすぎと思われるかもしれない。しかし「書付け消さん」という言辞には、たとえば今日、四国八十八箇所巡礼を満願した者の、完遂の感情に通うものがこもっていると私は思う。
『奥の細道』には曽良の句が、11句載せられている。実態は曽良は秘書役であったのは確かだが、共著でもない作品の中に、作者以外の名と句を、添え物としてではなく、自作と同等の扱いで入れるのは、芭蕉が認めたということであり、一書の中に名を並べることを喜びとした何よりの証である。
笠が芭蕉の表現では旅の象徴と感じるもうひとつの根拠として、芭蕉の次の俳文を挙げる。
「笠の記」(貞亨3年秋 芭蕉43歳 『奥の細道』の旅の3年前)である。
笠を手作りしている様子を書いている。『奥の細道』の旅に被った笠も、自らの手になる物だったろう。『奥の細道』を読み通すと、ゆく先々で雨と暑い日差しに難渋しているのがわかる。
曽良の随行日記を併せ見ても、天候はおおむねで合致している。雨も日差しも、笠ひとつが体力を保つ上で、大いなる頼みの綱なのだ。
延宝4年夏。33歳。芭蕉二度目の帰郷の折には、小夜の中山でこう詠んでいる。
命なりわづかの笠の下涼み 松尾芭蕉 「俳諧江戸広小路」より
この句もまた、旅を詠むとき、真っ先に笠が題材になることを示している。
貞亨5年6月 芭蕉45歳のとき、「鵜舟」において、『後撰和歌集』に載る源信明の歌
「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらん人に見せばや」
を引いているから、『後撰和歌集』は、愛読の歌書であったとわかるが、笠と露にちなむ歌が、この集に載っている。次の歌だ。
宗于朝臣〔むねゆきあそん〕のむすめ、陸奥へ下りけるに
いかでなほ笠取山に身をなして露けき旅に添はむとぞ思ふ
よみ人しらず『後撰和歌集』離別
笠取の山と頼みし君を置きて涙の雨に濡れつつぞ行く
よみ人しらず『後撰和歌集』離別
笠取山は実在の山。この名に笠を掛けて、笠が露に濡れ湿りを帯びる苦労、困難な旅路に思いをはせている。
芭蕉の詠んだ「笠の露」もまさに、風雨に打たれ続けて来た旅であったと言う思いを含ませた表現なのだ。
🔲🔲🔲🔲🔲 『奥の細道』の力 読まれ続ける俳人曽良
曽良は、芭蕉門人のうち、最も幸福な名誉を得ている。
芭蕉と言えば、ほとんどの人にとっては『奥の細道』であり、それゆえに曽良の句は、芭蕉とともに読まれ続ける。中には、曽良の句でありながら、芭蕉の句として記憶する人も多いだろう。それもまた、泉下の芭蕉は笑って許しているだろう。
門人の中では、許六の句が、曲水の句の方が、と文学的価値から言ったところで、『奥の細道』を読む読者に比べれば、その数は雲泥の差である。
漱石、太宰、宮沢賢治。この三人は、死してなお現役作家より本が売れる文学者として、その名が挙げられる。
その流れでゆくと、現代でも最も読まれ続けている俳人の中に、曽良を入れなければならないはずだ。
「卯の花をかざしに関の晴着かな」「松島や鶴に身をかれほととぎす」『奥の細道』から取り出して、この句だけを独立した形で読んでも、芭蕉のファンなら、ああ、曽良だ、とすぐにわかるはずだ。
令和5年5月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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