見出し画像

俳句のいさらゐ ❁✣❁ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十七。「石山の石より白し秋の風」

「石山の石より白し秋の風」は、現在石川県小松市の那谷寺での吟。

那谷寺参道風景

『奥の細道』の旅のあと、「石山の石」で始まるもうひとつの俳句が芭蕉にはある。元禄三年 (『奥の細道』の旅は、元禄二年 ) 、近江石山寺を詠む。
その俳句は、
「石山の石にたばしるあられ哉」
私もかつて早春の近江石山寺を訪ねたことがあるが、むき出しの石塊とその白さが、確かに眼に残った。

伊勢参宮名所図会より 石山寺の図

『奥の細道』で使った同じ言辞を再び用いているのだから、石山という呼称の、簡素明快で、雅趣を帯びない点に詩人芭蕉は惹かれていると思わせる。
「石山」という呼称が雅趣を帯びない分、そのあとの「石にたばしるあられ」にしても「石より白し秋の風」にしても、対照的に、趣を持って浮かび上がる効果を芭蕉は意図しているのだ。

近江石山寺は、寺の名にあるのだから「石山」と使うのはまだわかる。しかし『奥の細道』の石山は、石川県小松市の那谷寺であり、岩山の白さは知られていたとしても、「石山」と呼ばれていたわけではないし、仮に「那谷寺の石より白し」という表現でも意は通じただろうと思う。
石という無機物を強調したのだ。

「石山の石にたばしるあられ哉」は、堅い石の白の面に、あられという白の閃光が自在の軌跡を重ねている鮮烈を詠み、一方「石山の石より白し秋の風」は、つかみようも抱きようもない秋風なのだが、眼前にある岩の白の量感を拭い去って、この景そのものを白い寂寞 ( じゃくばく ) に包み込んでゆく、と感じたつかの間の眩輝を詠んでいる。
つまり両句は、官能の句と観念の句とに分かれる。いや、さらに思いを深めれば、「石山の石より白し秋の風」は、観念の句であるとともに、官能の句でもあると言えるだう。

そう断じる理由は、「石山の石より白し秋の風」は、『奥の細道』の旅という、日常生活とは隔絶した、俳諧の精神探求と言える行脚の日々において詠んだ俳句だからだ。その日々には、精神の熱い漲 ( みなぎ ) り、感覚の充溢があった。
たとえば『奥の細道』の他の俳句、「閑さや岩にしみ入蝉の声」が、なるほどと感心は出来ても、実際に自分がそんな感じ方でもって佇めるかと自問すれば、否と言うしかないように、「石山の石より白し秋の風」も、詠みぶりはじつに簡素明快であるのだが、全能でこの感覚をつかもうとしても、机上のもの思いでは得られないことなのだ。

『奥の細道』は
草の戸も住み替る代ぞひなの家
と、彩りある情景で始まった旅は、

行春や鳥啼魚の目は泪
あらたうと青葉若葉の日の光
暫時は滝に籠るや夏の初
「卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて」( 白川の関越えの前文 )

と立て続けに、きらきらと瞬き、輝きを刻む事象の記述を重ねて進むが、

涼しさやほの三日月の羽黒山
一家に遊女も寝たり萩と月
あかあかと日は難面もあきの風

と、かすかな、存在感の淡いひかりが詠まれるようになってゆく。
そしてこの
石山の石より白し秋の風
である。

初夏の彩に目を奪われていた芭蕉の目は、旅の日数が積もると、たとえば寺社の装飾の華美や、晩夏の朝焼けや夕映え、初秋の花や蝶といった、鮮やかな照映えには関心を示さなくなる。
表層の色を描き続けることをせず、墨画の心髄を映し出すような表現へと変わってゆくのが、『奥の細道』の特色である。

それは、人工的な大都会である江戸なり上方なりに溢れる、造られ演出された色に囲まれた芭蕉自身の、長年の町ぐらしへの倦怠がにじみ出た反照と見てもいいのではないか。
しかし俳諧師としての人生とは、町ぐらしでしか成り立たず、この旅を終えれば、再びそこに埋没するしか生きようはないことを芭蕉は、骨身にしみて知っている。
町ぐらしに戻って、『奥の細道』の感興に並び得る俳句を詠めるだろうか、という漠然とした憂愁が、旅の後半の気の弱りと重なって、風の白さを心に映し出している。
その意味から、叙景のかたちを取りながら、抒情の極まった一句と言えるのだ。
                            令和6年7月          瀬戸風  凪
                                                                                   setokaze  nagi






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?