俳句のいさらゐ 🍵🍵 松尾芭蕉『野ざらし紀行』より。「牡丹蕊(ぼたんしべ)ふかく分出(わけいづ)る蜂の名残哉」
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「牡丹蕊ふかく分出る蜂の名残哉」は、『野ざらし紀行』の中で、門人杜国におくった「しらげしにはねもぐ蝶の形見哉」の次に出ている句である。句の発想の点では、いわゆる同工異曲で言い換えれば双子と言える。この句もやはり門人桐葉に送っている。
昭和62年 お茶の水女子大中国文学会報第6号に載る伊古田陽子先生の「芭蕉における杜甫」という論考に教えられたのだが、杜甫の漢詩「徐步」の蜂と花の様子が、芭蕉にこの句を導いたとしている。その詩を掲げる。
詩の全体の解釈は煩瑣になるので避ける。この中の、花蕊に寄る蜂の姿が芭蕉の心中に残っていたというわけだ。
私は、蝶と蜂が揃って出てきて、なおかつ過ぎゆく時間への未練の思いを詠んだ詩として、下の作品に気づいたので掲げよう。漢詩の数が膨大で、私などには気づけないだけで、おそらく他にも、蜂、蝶、花の取り合わせの、芭蕉の教養の中にあった漢詩があるのだろうと思う。
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では句を送った相手、桐葉子はどういう人か。桐葉は俳号、本名林七左衛門。熱田の市場町に住む旅館の主人で郷士。貞享元年芭蕉は、「この海に草鞋捨てん笠しぐれ」の句を、桐葉の旅宿で詠んでいる。
「二たたび桐葉子がもとにありて、今や東に下らんとするに」の詞書からは、その時入門したと読める。
これは想像だが、桐葉の方から、熱田を通る際には、芭蕉が自分の旅館に泊まるよう是非にと便宜を図ったのだろう。芭蕉俳諧に共感し心酔する素養を桐葉は備えていた。芭蕉もまた、桐葉から受ける刺激があったのだろう。滞在中は、時を忘れて俳諧の話に耽った様子がしのばれる句である。
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この句の別れより後のことになるが、貞亨3年か4年の3月14日、東藤、桐葉両人宛ての書簡にはこうある
「一、御俳諧よくぞやおもひ切て長々敷物を点被二仰越一候。乍去余感心、見るも面白く、判詞不覚手の舞足の踏事をしらず候」
( 意・―東藤・桐葉が巻いた両吟歌仙について―よくこれだけのものを詠まれ、送っていただき喜んで読みました。大変すばらしい出来と感心しました。面白くて、点付けのことなどは忘れたまま読み込んでしまいました )
そして、「これを出版することにしましょう」と書簡の中で伝えている。この書簡からも、桐葉の力量を充分に認めていたことがわかる。
「牡丹蕊ふかく分出る蜂の名残哉」の句に戻る。
貞享2年の芭蕉のこの句のあとに、桐葉は脇句をこう付けている。
「憂きは藜 ( あかざ ) の葉を摘みし跡の独りかな」 桐葉之(し) 真蹟懐紙
この句の意を解釈すればこんなところか。
先生、あなたがいた時間には、まさに牡丹と蜂の映し出す光景が持っているような、濃密な、静雅な気韻が満ちていました、けれど、先生が去ったあとの時間には、もはや美しい牡丹などは消えてしまって、私一人では、食菜の藜を摘むような時間があるばかりで、それもやがては摘み終えてしまうでしょう、そんな憂いに私は包まれています。
芭蕉の去った後の時間を藜で象徴させて、芭蕉が牡丹と喩えた師と弟子の交流の愉楽を、さらに潤色しているのである。
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別離に際しての濃い情感を表現した、杜国と桐葉へのそれぞれの句であるが、この二つの句には、『野ざらし紀行』を、いきいきとした作品として構成しようとした試みが感じられる。アバンギャルド精神と言ってもいいだろう。
発想は同工異曲の二句ながら、一方は白芥子、もう一方は牡丹と、イメージが大きく違うのは、送った相手の面影が自ずからそうさせたというのではなく、『野ざらし紀行』に入れるにあたり、花と虫の絵画的な組み合わせの妙を、趣の異なる二句を前後して並示し、読む者の誰がどちらを優れた句と見るか、反応を楽しもうという遊び心もあったのだろうと思う。
また、「しらげしにはねもぐ蝶の形見哉」は、杜国に深い親愛の情を持っている分、思い入れも深く、出来のいい句とも思ったのではないだろうか、それでバリエーションが浮かんで来たように思える。
今栄蔵『芭蕉年譜大成』 ( 平成6年 角川書店刊 ) によれば、二句ともに、貞享2年(1685年)4月上旬頃の作と推定している。
令和5年4月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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