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俳句のいさらゐ 🌳🐎🌲 松尾芭蕉 門人許六への餞けの詞より。「椎の花の心にも似よ木曽の旅」


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芭蕉の俳論を伝える『三冊子』、芭蕉の生涯全作品の集大成『蕉翁句集』『蕉翁文集』を完成させるなど、芭蕉の人と作品を伝える大きな仕事をした門弟であり、かつ俳諧の道の同士ともいうべき服部土芳へ与えた絶唱、「命二つの中に行きたる桜かな」
芭蕉が近江の地を愛し、義仲寺に葬ってもらいたいと望んだ理由の大きな部分に、この門弟が近江 ( 膳所 ) にいたことを挙げるべきだろうと感じさせる近江膳所藩士、菅沼曲水 ( 芭蕉の近江での仮寓、幻住庵を提供したのは曲水 ) への書簡に示した句「百歳の気色を庭の落葉哉」
親愛の濃い情を暗示したものでありながら、過剰な表現をすれば、門弟の俳句への向き合い方、覚悟のほどに突き付けた匕首、でもあると言いたいようなふたつの句を、この「俳句のいさらゐ」シリーズの記事で解釈して来た。

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今回も、門弟に与えた句を取り上げる。この餞別の句を与えた相手は、森川許六  ( もりかわきょりく 1656―1715 )  近江彦根藩士。学識才能の豊かさに芭蕉が一目置き、信頼された門人である。
元禄6年4月に書かれた「許六離別の詞」として世に知られている文中には、「猶『古人の跡を求めず、古人の求たるところをもとめよ』と、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、燈をかゝげて、柴門の外に送りて別るゝのみ」という著名なことばが出ている。そういった学識を例に引きながら、その意味を咀嚼する智の力があると見込んだ門弟が許六だった。

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元禄6年4月、江戸詰めであった許六は、江戸勤番を終え帰国することになった。元禄5年8月9日の入門であるから、当時江戸住まいであった芭蕉のもとから離れるまでには、入門後いくらの歳月も過ごしていない。
元禄5年10月には、三吟俳諧 ( 一巻の連句を三人で巻くこと ) を催し、「寒菊の隣もありや生け大根  許六」の句を出しているから、才能は紛れもないものがあったとわかる。
許六は画に優れ、芭蕉は贈られた許六の画で襖を表具している。許六は、翌年には江戸勤番を終えることから、江戸にいるうちに、なるべく芭蕉に接していたいと望んだことが、芭蕉の許六宛て書簡から知られる。
それだけに、師も弟子も、元禄6年4月の別れは、名残りの尽きないものであった。

許六肖像 江東区芭蕉記念館蔵

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さて、その句、「椎の花の心にも似よ木曽の旅」
背景には、許六が譜代大名彦根藩の重臣という立場がある。長い刀を腰に差し、乗鞍馬に打ち乗り、槍持ちに槍を持たせて、共の若い徒士には黒羽織を着させるなど、はえばえとした装いで江戸を立つ許六の様子を、「許六を送る詞」に、記述している。
ゆえに、句の意味するところは、表向きはそういう体裁を整えた姿であっても、心構えとしては、一介の文人として、何を持たずとも、ただいっしんに風雅を見極めるのを喜びとする帰国の旅であれよ、という教えでもあり、励ましでもあり、許六の受け取り方によっては、強い戒めと理解し得る。

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椎の木は、特に気に留めたりはしないありふれた木で、その花も、もこもこと群がり咲き、美しさをことに愛でられるというようなものではない。事実、椎の花を詠んだ万葉・古今の歌で知られているような歌はないだろう。
徳川譜代藩 ( 最も家格が高かった井伊家 ) の重臣森川許六の、幕威を示す重厚ないでたちに対照させて、「椎の花の心」と表現したのだ。

椎の木 椎の花

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そして、「木曽の旅」は、たんに彦根への帰国の旅をさすのではなく、当然、私のもとを離れてから後も、という気持ちを含んだものである。つまり、芭蕉は、上述した許六宛ての先の詞のなかに書いた『古人の跡を求めず、古人の求たるところをもとめよ』を念頭に置いて、私 ( 芭蕉 ) の求めたところを、あなたには継承してほしいという望みを伝えたわけでもある。

芭蕉の心にあった椎を思うことができる句がある。
遡る元禄3年7月の句で、彦根の仮寓幻住庵での暮らしのうちに執筆された「幻住庵の記」に入るこういう句だ。
先ずたのむ椎の木もあり夏木立   芭蕉
この庵を用意してくれた門弟曲水への返礼の句である。
何よりも、寒さも暑さも和らげてくれて、一人暮らしにはふさわしい、閑静な環境を生み出してもくれる椎の木の木立に囲まれているのがありがたく、この庵の暮らしは快適なものになるでしょうという意をこめている。さらに裏には句をふくらませる諧謔として、食べる物に事欠いても、こんなに椎の木が生えておりますから、その実を食せば飢えることはないでしょう、という意もひそめているだろう。

再建された幻住庵 「滋賀・びわ湖観光情報ホームページ」より転載

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「椎の花の心にも似よ木曽の旅」、別離に当たりこういう句をもらった許六は、師は自分の俳諧への心構えをまだ甘いと見ている、と感じて、はっとしたことであろう。譜代藩士という立場を外してもなお、揺るぎない一人の俳人たりうるか許六よ、と肺腑をきゅっとつかまれたような思いもあっただろう。
冒頭述べたように、門弟の俳句への向き合い方、覚悟のほどに匕首を突き付けているといってもいいような、芭蕉の姿勢から生まれるきびしい句だと私には思えて来る。
                                                       令和5年4月        瀬戸風  凪
                                                                                                    setokaze nagi

























































































































































































































































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