見出し画像

俳句のいさらゐ ∞✭∞ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十。「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」

あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

先ず、前文の「さもあるべき事にや」に注目しよう。
文字摺り石があるばかりに、それを見に来る者に麦畑を踏み荒らされて村人が怒った、という伝えを ( それもあるべきことであろう ) と納得し取り上げているのだから、すなわちこれは、和歌に詠まれた古蹟の風流を求めて足を運んだ者 ( 当然芭蕉自身も ) が、村人たちの目にどう映るかをも示していると読める。わざわざ名ばかり残る石を見るために ( いいご身分の方は )‥‥、という村人の心中を忖度しているのだ。

1963年「奥の細道 : カメラ紀行」より しのぶ文字摺り石 ( トリミング )  

それでも、芭蕉は文字摺り石の里を訪れたことを述べ、俳句も加えた。それは、俳句にある「昔しのぶ」営みが、『奥の細道』の旅の命題であったからだ。
「此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」というありさまであってみればなおさら、古今隔絶の感をいやましに深めたのであり、まさに『奥の細道』の旅の命題に適うからであった。

この俳句は、一見でわかるとうり、掛詞の技法によりなる。昔をしのぶをしのぶ摺に掛けているのだから、それが俳句の核とみなされるだろう。
しかし私は、「早苗とる手もと」が、往年のしのぶ摺りのしぐさを偲ばせる、という意味合いよりも、以下述べる気持ちが、芭蕉にこの表現を取らせていると思う。

 ◙ 古の時代も、こうして早苗とりを続けてきて、その姿は今においてもい
    っこうに変わることはない。その厳しい田仕事の情景を見るにつけ、しの
    ぶ摺りという、平易で簡素な技法の摺り染めは、連綿と繰り返されてきた
    労働の暮らしの中に、わずかな潤いとして存在していただろうと思いやる
 ことだ。
 そのしのぶ摺りが今はもう顧みられていない。見に来る者に麦畑を踏み荒
 らされて我慢ならないから、二度と使えないようにしたという伝えまであ
 るのを童から聞くとは、何とやる瀬ないことだろう。
 しかし古歌 ( 「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我な
 らなくに」源融『古今集』)の雅は、幻想の内のこととは、わかっていた
 ことである。
 今ここを訪れて、詠むべき俳題は、古今変わることなく早苗とりに精を出
 している五月女の、見惚れるほどの手先の美しい所作である。それが自分
 の感じた風流である。

昔しのぶとしのぶ摺の掛詞の妙味を出すのを主眼として、この俳句を置いたという解釈はいかにも浅薄である。「しのぶ摺」を俳句に出したのは、掛詞の妙味より別に、古蹟を挙げて、ここは歌枕の地ではあるが、と俳句の立ち位置を明らかにしたという意味を持つ。
この俳句は『曾良書留』に、芭蕉の草案としては
早乙女に仕形望まんしのぶ摺
とあるから、草案では、どのような所作で摺りをしていたものだろうかという関心にとどまるが、『奥の細道』の完成句でいっきょに、風土に即した人の営みに思いをはせる、広い視野に及んだと言えるだろう。

『奥の細道』において、芭蕉は多くの歌枕の地に立っているが、多くはその地にゆかりの俳句を載せていない.。 ( 詠んでも採らなかった場合もある )
例に挙げよう。■は本文に出て来る歌枕の地。そのあとの歌は、歌枕のゆかりとなった古歌である。

■ 室の八島   藤原実方の歌「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八
         島の煙ならでは」など
■ 那須の篠原  源実朝の歌「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばし
         る那須の篠原」
■ 白川の関   平兼盛の歌 「たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白
         河の関は越えぬと」など
■ 安積山               采女の歌「あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思
                              ふものかは」
■ 十符の菅           橘為仲の歌「見し人もとふの浦かぜ音せぬにつれなく消る
         秋の夜の月」
■ 玉川           能因の歌「夕されば汐風こえてみちのくの野田の玉川鵆な
                              くなり」
■ 塩がまの浦        よみ人しらず「みちのくはいづくはあれど塩蒲の浦こぐ舟
                               の綱手かなしも」
■ 小黒崎             よみ人しらず「小ぐろ崎みづの小じまの人ならば都のつ
 みづの小島    とにいざといわましを」 

まだあるが、これくらいにする。つまり、歌枕の地で俳句を詠み、それを載せることは、『奥の細道』では希少なのである。
忍ぶのさとは、しのぶ文字摺り石の歌が詠まれた歌枕の地。ここで詠んだ俳句を載せたのは、どの歌枕の地よりも、それだけここで得た感慨が強かったということを示す。

「一家に遊女もねたり萩と月」は、『奥の細道』に艶めかしさをもたらすために、演出され配置された俳句だとする読み方がある。
演出の句とは思わないことは以前の記事で述べたが、しかし、『奥の細道』中、最も艶めかしいのは、この「一家に」ではない。
また尾花沢での「まゆはきを俤にして紅粉の花」でもなく、あるいは艶麗という形容でくくられそうな象潟での「雨に西施がねぶの花」でもない。この俳句「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」であると私は思う。

写真・木村伊兵衛 「秋田おばこ」1953年

この俳句から私は、一枚の写真を思い浮かべる。
上に掲げた写真家・木村伊兵衛(1901-1974 )の名作の一葉である。木村伊兵衛が、この秋田おばこのまなざしの清涼微愁に魅せられたように、芭蕉もまた水張田をくぐる五月女の手と、張られた水の面にゆらめくひかりに陶然となったのだ。
文字摺りは、「もじれ摺り」が語源ともいい、ねじれ模様を特徴とするという。
芭蕉の「昔しのぶ」の真意は、五月女の手の動きによって田水に生ずる陰影に、往年のしのぶ文字摺りの紋様を幻想しているのである。

                                                     令和6年7月        瀬戸風  凪
                                                                                                    setokaze  nagi



   



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?