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俳句のいさらゐ ⚙⋄⚙ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十三。「行春や鳥啼 (とりなき) 魚の目は泪」


深川/千住・位置図

鳥が啼き魚も涙を浮かべているのは、何に対してそうなのかと問えば、行く春に、ということになろう。
しかし、芭蕉は首途 ( かどで ) にあたっての感懐を俳句にこめたわけだから、そのつながりが解釈できない。行く春は、芭蕉の旅立ちよりもはるかに大きい事象である。
「鳥啼魚の目は涙」は、旅立つ自分の様子をその表現で喩えている、と私は解釈する。鳥も魚の目も芭蕉自身である。

こういう経験が私にはある。
鳥が飛び立つとき、何かの合図のように高い鳴き声を発するのを幾たびも聞いた。最も記憶に残るのは烏 ( からす ) だ。烏は、高い鳴き声を発して飛び立つ鳥の典型ではないだろうか。
烏を上げたのは一例で、烏がこの俳句の鳥と言っているのではないが、

「枯枝に烏 ( からす ) のとまりけり秋の暮」

という俳句が芭蕉にはある。烏を凝視し、そこに自己を映す芭蕉がいる。

「鳥啼」に通う思いを表している芭蕉の俳句として、

「原中やものにもつかず啼く雲雀」   貞亨4年 ( 1687年 )

を挙げる。広々とした野原のどこかで、盛んに囀っている雲雀を、観念の世界に感じ取っている俳句だ。
この俳句にいう「ものにもつかず」、ただ命を燃焼させるように鳴き声を放っている雲雀は、「鳥啼」の姿の類想と言っていい。

念願の奥州行脚出発に際し、かみしめている爽快さ、満足感、高揚感、しかし半面の、明日の安寧もあやうい懼 ( おそ ) れ、健康不安‥‥の混じる思いにいるのが、芭蕉の姿である。
芭蕉は、行く春と歩を合わせるように、遠い地へと旅立って行く自分を、鳴き声を響かせているが、しかとは姿が見えない鳥に喩えた。
互いに姿が見えなくなっても、私は名残を惜しんで鳴き続けながら旅立って行くでしょう、と見送りに来た門人たちへの謝礼の気持ちを込めている。

「是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし」

と綴る芭蕉の心には、この旅を実現するのに尽力してくれた門人たちへの、尽きない感謝の思いが満ち溢れているのだ。

後年になるが、芭蕉がはっきりと死期を悟り始めた元禄7年9月26日、
「この秋は何で年寄る雲に鳥」
という俳句を詠んでいる。季語が秋だから、この鳥は雁になるだろう。「雲中帰雁」ということばがある。芭蕉は、帰雁に、この世から早晩去り行こうとしている自分を重ねているのは確かだと読める俳句だ。
その俳句よりは5年早い作だが、同じ感じ方で、「行春や鳥啼魚の目は泪」の方は、行く春の比喩イコール、自分の壮年時代が去り行くこのときだからこそ、鳥がいっしんに鳴くように、今このときを確かな実感をもって生きるための旅に踏み出す姿に重ねたのだ。

では「魚の目は泪」は、どういう比喩か。
目に泪、ではない措辞に注目する。「目は泪」なのだ、魚がもし涙を目に宿すとしても、それは目そのものが涙であるという表現だ。それを逆に言うと、私のこぼす涙は、魚になって川をながれてゆくよ、という意味になる。もちろん詩的イメージの表現だ。
曽良の随行日記には、旅立ち初日は、
「深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル」
とあり、船上で、しばしの間は惜別の情に胸がふさがっていたであろうと、容易に想像できる。
私の翻案俳句のまずさは容赦願うとして、あえて説明用に言い換えれば、「涙落ちて魚と ( ※ 魚となっての意 ) 消ゆるや春の潮」とでも表現すべき感情を述べていると読める。

あらためて、「行春や鳥啼魚の目は泪」のこころを見つめたとき
「若葉して御目の雫ぬぐはばや」
        1688年(貞享5年)4月8日 奈良・唐招提寺
という鑑真和上像を見て詠んだ芭蕉の俳句が浮かぶ。

この俳句は、芭蕉の、人の真摯な姿に感じやすい心、また徳に対して感謝の念を吐露しないではいられない心を代表する句だと思うと、以前の記事で解釈したが、「行春や鳥啼魚の目は泪」も、芭蕉のその人格を如実に表している俳句だと感じられるのである。

         令和6年8月           瀬戸風  凪
                                                                                            setokaze nagi


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