文芸雑誌「明星」は、与謝野鉄幹が中心となって明治33年に創刊した雑誌である。藤島武二に表紙の絵を依頼していたことが象徴しているように、浪漫主義の画家を積極的に認めていて、その紹介も雑誌の主要項目だった。
青木繁もそのうちの一人で、明治37 (1904 ) 年の白馬会で公開され話題になった「海の幸」の、その後青木が画筆を加える前の映像を、明治38 (1905) 年3月の「明星/第4号」で、いち早く世に紹介している。( 下の挿図 )。この映像によって「海の幸」を知った当時の青年たちは多かった。
この「明星」に集った文学者の作品と、浪漫主義の画家たちの芸術の関わり合い方について次の論考は、大いに参考になる。
文学者たちの活動が、明治浪漫派の絵画作品を誘引したという上に引用した論考を進めることになるが、私は青木繁の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」の二作品は、今度は文学者たちを大いに刺激し、さまざまな作品を着想させたと思っている。
今回紹介する与謝野晶子の詩「曙光」「五月の海」「太陽出現」もまた、青木の「海の幸」から晶子が受け取った印象が、詩句の中にこもっていると感じられる。与謝野晶子は、「海の幸」「わだつみのいろこの宮」ともに、白馬会展と東京府勧業博覧会美術展出品時に見ている。
なお、下の図版「運命」「輪転」は、展覧会出品作ではなく私蔵されていたものなので、晶子は実物は見ていない。青木のこの二作品は、「海の幸」創作以前の作品で、「海の幸」「わだつみのいろこの宮」の絵画エッセンスがすでに萌芽しているという見解を、過去の記事で述べて来たので、参考として挙げた。
与謝野晶子は、「海の幸」からのインスピレーションを三つの詩にアレンジメントしているようだし、その展開により生まれた詩句は、まるで晶子は「運命」「輪転」を知っていて、なぞらえて作ったかのような感覚を覚えさせる詩であるからだ。
青木と晶子は、おのがじしの営みながら、相似た詩情を以て、同じ観念の海を遊弋していたという気がする。
曙光
与謝野晶子
五月の海
与謝野晶子
太陽出現
与謝野晶子
令和6年4月 瀬戸風 凪
setokaze nagi