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【連載】ちいたら散歩〜コロナ自粛下のジモトを歩く〜(第3回)

⑤ツツジ寺
 自粛期間中、朝起きてベランダに出るのが日課となった。クルマの量が減り、羽田新ルートでうるさくなった飛行機もいない。だから、空気がいい。胸いっぱい朝の空気を吸い込み、体操。
 テレビをつけると暗くなる。不安だから、インターネットで専門家が解説している動画をみる。児玉龍彦、岩田健太郎、渋谷健司、それぞれが正しそうで、なにを信じていいのか分からない。
 人混みにはいかない。人とすれ違わない。行ける場所は限られる。

 ジモトのクルマ通りではない道を歩く。それだけで見えてくる景色が全然違う。人も少ないから、鳥の声も聴こえる。
 前回紹介した『オオカミの護符』で取り上げられていた竹林の横を通る。ここに生えているタケノコがジモトの名産品とは知らなかった。その竹林からはホトトギスの声がする。

 ブラブラしていると、丘陵の向こうに林が見える。なにがあるのか気になる。長い坂を下っていき(途中コンビニでトイレを借りる「緊急事態」を挟みながら)そこに着いた。
 息を呑む風景だった。こんな山門がある寺がジモトにあったのか。ツツジ寺の愛称をもつ神木山等覚院(しぼくさんとうがくいん)という寺だった。

⑥長尾
 嫌いだったジモトが少しずつ好きになってきた。いや、こんなに面白いところないかもと思ったのは、等覚院(とうがくいん)を訪れてからである。
 
 境内に、人はいない。ツツジの季節には、少し早い。(残念ながら今年は参拝客防止のため、花が咲く前にすべて摘んでしまったらしい。同様のニュースは全国で聞かれた)。
 手を清めるための「手水舎」(てみずしゃ)と呼ばれる石に「水垢無」と刻まれていた。あるはずの柄杓は撤去されている。裏に回ってなにか書かれていないかと見る。
 すると、そこには石を寄進したと思われる周辺の村々の名前とその下に世話人と書かれた者の名前(勘左衛門とか)がびっしり記されていた。その一つに「小野路村 講中」というのを見つけた。小野路というのは私たち「ぽすけん」にも馴染みがある。

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 簡単にとどめるが、「ぽすけん」メンバーである小笠原先生と山本先生と私は2012年から「多摩スタディーズ」という研究をおこなってきた。幕末の新選組から戦後の砂川闘争までの多摩地域の歴史を「叛乱」の歴史として捉え返そうという試みである。
 小野路は、そのなかでも局長・近藤勇と新選組のスポンサーだった佐藤彦五郎が義理兄弟の盃を交わしたという小島鹿之助(為政)が名主をつとめていた村だった。その村の講中と等覚院が交流を持っていたことが分かる。
 他にも、「江戸日本橋呉服町越後屋たき」という名前もあった。たきさんは誰だろうか?

 産業道路が通り、クリエイトやガストが立ち並ぶ「ザ・みやまえ」の空間の奥に、思いがけない歴史が眠っていた。等覚院を含む地域一体は、長尾と呼ばれていた。この場所については次回以降も触れていきたい。

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【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)

東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載中(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。

※このNoteに「いいね」が7つ付かないと連載打ち切りのようです。何卒宜しくお願い致します。約1週間(26日)までの連載を予定しています。

記事自体は無料公開ですが、もしサポートがあった場合は今後の研究活動にぜひ役立てさせていただきます。