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日本一のバンジージャンプを跳んだ話

落差100m、日本一のバンジージャンプを跳んでみて思ったことは、バンジー跳んでも人生はそう簡単に変わらない、ということだった。


2018年春に日本一のバンジージャンプを跳んだ。


私が初めて富士山に登ったのは、これよりさらに2年前のこと。

「日本一というテッペンを一度見れば人生観変わるかも」くらいのやや不純な動機から、フットワークの軽い仲間を誘って登山した。(この経験についてもまた書きたいと思う。)

結果、自然の美しさにただひたすらに感動して、逆に「人生観変わる」なんて考えていた自分がちっぽけすぎる、と諦めの境地に達して下山するに至った。


そして2年後、性懲りもせず「日本一というテッペン」に人生観の変化への少しの期待を持ちながらバンジージャンプに挑んだのである。

そして訪れたのはこちら。

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竜神バンジー

茨城県常陸太田市にある竜神大吊橋という吊橋の上から跳ぶ、その落差が100m。

水面までの距離ではないので、実際に橋の上に立つと当然もっと高い場所から跳ぶことになる。

それまで、経験者の動画を見てイメージを膨らませてみたり、ベッドにダイブしてみたりしてきたけど、高さは映像を見て感じるものと、実際目にして自分で感じるものとは随分違う。

とはいえ16,000円という料金を支払っており(2020年1月より17,000円に値上げされたそう)「何があっても文句なし」的な例の紙に署名してしまっているので、跳ぶしかないのである。

最初に跳んだのは世界一のマカオタワーバンジーを2度経験している大学の先輩。「後ろ向きに跳んでもいい?」と係の人に確認している。もはや参考にならない。

二番目に跳んだのは本場ニュージーランドでバンジー経験ありの大学の友人。こちらも余裕の表情。美しいTの字で落下。

そして私。

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おわかりだろうか、このへっぴり腰。

他の2人に今の心境を聞かれ、「やってもうたと思ってる」と言うと、係の人に「やってもうたは跳んでからにして」と諭される。

何よりも一番怖かったのは、跳ぶ瞬間。落ちている間ではない。自分で踏み出す一歩先に何もないという感覚は、日常ではなかなか味わえないと思う。

後から動画で見たときに、端っこに立たされた後に伸ばした手が橋桁に触れていたのを係の人に離されて、無意識に手が触れていたんだと気付いた。

それでも「このまま跳ばなかったら係の人にも迷惑かけるし、一緒に来てくれた二人にも幻滅されるんだろうな」とよぎって、跳んだ。こんな状況でも周りの目を気にしてしまう自分。

あれだけ跳ぶ練習をしていたのに実際は「ちょん」くらいしか跳べず、落ちている間は景色を見る余裕も、スピードを感じる余裕も全くなかった。

あれだけ跳ぶ前は励ましてくれた係の人も、私を釣り上げた後は「お疲れっす」くらいのノリで、拍子抜けした。それでもあんな高い場所で日々命をかけて働いている方々はすごいなと思うし、高いなぁと思っていたバンジーの料金にも納得。お世話になりました。

そんなわけで私のバンジー初体験は、割とあっさりと幕を閉じたのである。


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人生が本当に変わるのは日々の生活の中。

(次の日訪れた国営ひたち海浜公園。ネモフィラが満開だった。)

バンジー跳んでも人生はそう簡単に変わらない、とは思う。けど、何かに気付くきっかけにはなる。

私はいつも周りの目を気にしている。極限の状態でさえそうなんだな、ということに気付いた。そういう己の悪癖は日々の生活の中で変えていかないといけない。

私たちの後に跳んでいたお兄さんは、近々結婚するらしく、「愛してる」的なことを叫びながら落ちていくのをお友達が撮影していた。(しかしこのお兄さんは、我々があまりに淡々と跳んでいくのを待機場所で見ながらずっと「マジか…」と呟いていた。)バンジーはこのくらいポップなノリで、思い出作りのために挑む方がいいような気がする。きっとお兄さんは、これからバンジーよりももっと高い壁に立ち向かっていくし、喜びを日々の生活の中で得るのだろう。


やってみたい人は、深く考えず一度跳んでみればいい。人生は変わらないけど、面白い思い出になるし、それでいい、それがいいのだと思う。私も次跳ぶなら、ただ美しいTの字で跳んでみたい。





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