カレー
「僕、信楽を出ることにしました」
コーヒーカップを置いて、八郎は大野夫妻に告げた。
誰にも言うつもりがなかったし、ここは喜美子の妹の嫁ぎ先、自分の親友でもある信作の家でもある。すぐに喜美子の耳に入ってしまうのはわかっていたが、この夫妻には黙っていられなかった。ちゃんと伝えるのが筋だ。そう思っていた。
自分がまだ駆け出しだった頃から贔屓にしてもらって、食器を色々揃えて購入してもらっていた。『親戚関係だがら』という括りで依頼されたわけではないし、そう言うことは決してしない夫婦であることも理解していた。
だからからか、早くに両親を亡くした八郎にとって自分の器を大切に扱ってくれるこの夫婦を自分を丸ごと見守ってくれる両親のようだと、勝手に思っていた。
なので、この夫婦にはちゃんと伝えねばならない、と八郎は信楽を去ることを伝えた。
大野夫婦は、信作や百合子から、喜美子が穴窯での作品作りに成功した事を聞いていた。なので、もうこれで八郎が出て行く必要は無くなったと楽観視していたので、八郎の言葉を聞いて、豆鉄砲を喰らったような顔でお互いを見ていた。
「ハチさん、なんでや。きみちゃん、穴窯成功したんやろ?そしたら、もう、問題は解決したんと違う?」
陽子が恐る恐る尋ねる。
八郎は困ったような顔になった。
「だからです」
そう一言だけ言って、またコーヒーを飲んだ。
その言葉の奥にある、まだ自分自身でさえも答えが出せていない、けれども揺るぎない決心を汲み取った2人は、それ以上踏み込むことをやめた。
「ハチさん、カレー食べへん?」
忠信がそう言い出し、返事も待たずに八郎の前にカレーを出した。
このカレー皿も、八郎が作った物だった。
「このカレー皿な。不思議なんやで?どんな日も、カレーが美味しく見える。
うちのが作った日も、百合ちゃんが作った日も、どんな日もや。
それでな、ワシ思ったんや。器って、最後に目で楽しむ調味料みたいなんやなーって。
んー。だからな、うちではこれからもこのカレー皿を使うていくで。うちの最後の調味料はハチさんや!そう言っていくで。なあ!」
「そうや、うん。そうやそうや!」
陽子が同調した。
「ああ、それでここのカレーはいつでも美味しいんですね」
八郎は、泣くまいと思っていたが、堪えきれず泣きながらカレーを食べていた。
「だからな、ハチさん。ここのカレーは、あんたのカレーでもある。ここがハチさんのカレーの家や」
カレーを食べ終わった八郎は、お代をしっかり払い、頭を深々下げて店を去った。
それから、この狭い街である。八郎が信楽を去ったことはすぐに広まってしまった。そして、くちさがないひとは、
「八郎は妻の才能に負けて出て行った」
そう口にする人も少なくなかった。
サニーでも同様の話が出ることがあったが、大野夫妻は何も言わなかった。何か言い返すことは、八郎自身が望んでいないことをよく理解していたのだ。その代わり、頼まれてもいないのにカレーを出すことがあった。
「サービスや!」
と勝手にテーブルに置いた。
「このお皿作った人に失礼やろ!最後まで食べ!」
カレーを残すと、なぜか怒られるという特典が付いていた。
月日が経ち、八郎のこともほとんど口にする人がいなくなった頃、サニーに八郎が入ってきた。
「こんにちは」
おずおずと声をかける八郎に、忠信は少し驚いた顔をしたが、直ぐに満面の笑顔になった。
「おかえり、ハチさん!カレー食べへんか?ほら、こっち、こっち、カウンター座り!おーい、おーい!」
陽子と百合子を呼び、カレーを出した。
もちろん、カレー皿は八郎の作った物だった。
「そんでな、ハチさん、久しぶりで悪いんやけど、カレー皿、3枚割ってしもうて。
新しく作ってくれへんかな。いつでもええねん。そう、いつでもええんや。頼んでええかな?」
この時、八郎がだいぶ長い間陶芸から離れている事を忠信は知っていた。知っていて頼んでいた。
八郎もまた、忠信が自分の現状を承知してくれてその上で依頼していることもわかっていた。
「お時間頂きますが、もちろんです。いつか作ります」
それでも、夫妻の心に応えたい。ただいまと言いたい。そんな気持ちが八郎に皿の注文を承諾する返事をさせていた。
「ただいま」
八郎はいただきます、と手を合わせカレーを食べ始めた。
今日も、サニーのカレーは当たり前のように暖かく、美味しかった。
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