太陽とみかん2
蝉の音が鳴り響く8月、お盆に八郎は兄のところに来ていた。
8/12の夜、車で現れた兄は、有無を言わせず八郎を車に乗せた。
10個歳の離れた兄の言うことには昔から逆らえず、八郎はなすすべもなく車に揺られ、愛媛の兄の家にたどり着いていた。
「お前はとりあえず寝ろ!起きたら飯を食え!」
愛媛に着いたら、布団が敷かれた部屋に真っ直ぐ案内され、そのまま寝かされた格好になった。
襖は閉じられ、うす暗い世界に八郎は突然置き去りにされた。
寝ろ!と言われて寝れるほど器用ではないので困っていたが、不思議なことにそのまま眠っていた。
男衆の大きな声で目が覚めると、もう夕方で部屋の外では宴会が始まっていた。
「あ、起きたか、八郎」
兄が呼び寄せる。
その声に反応するように、周囲の人が観察するように八郎を見た。
「俺の一番下の弟です。ちょっとお盆の間うちで過ごすことになりました」
「和徳さんの弟かい!えらいハンサムだなあ。本当に兄弟かい?わはは!」
お酒の入った男衆は物珍しそうに八郎を囲んでお酒を勧めてきた。
正直、今の自分の精神面で沢山の知らない人に会うのは辛いものがあったが、反対に仕事のこと、陶芸のことを考えず過ごすことができた。
2日目の朝、八郎は鳥の声で目が覚めた。
信楽や京都とは違う空気、音。八郎は家の外に出る。
兄の家はみかん農家を営んでいて、屋敷の目の前がすぐ畑になっていた。
坂地に広がるみかん畑。
畑の上に家があるので、一面緑の地を見下ろす形になっていた。
「この一面にみかんが成るのか…」
そう呟くと同時に、4年前、喜美子と別れる前に食べた縁側のみかんの味が鮮明に思い出された。
途端に口の中に苦いものが上がってきて、八郎はそれを抑えることができず、吐き出した。
いつの日からか八郎は、喜美子を思い出すだけで嘔吐してしまうようになっていたのだ。
「あかんなあ…情けな…」
八郎は、自分の吐瀉物を見つめ、力なく笑った。
吐瀉物が、自分のようだった。
「八郎お前、このまま、2週間くらいここにおれんか?」
朝食後、兄が突然聞いてきた。
「みかん農家は今一番忙しいんや。お前のような細っちょい体でも、おらんよりマシや」
「お父さんたら!八郎さんごめんなさい。こんな言い方しかしなくて。でも、正直ね、うちの両親も力が無くなってきて、みかん畑って傾斜地でしょ?年寄りにはキツイのよ。手伝ってくれたら助かるわ」
和徳の言葉を通訳するように妻の典子がお願いした。
兄は、みかん農家の典子と結婚し、農家を継いでいた。
いわゆるマスオさんだ。
「仕事があるから…」
八郎はそれしか言えなかった。
ただ、純粋に「助かる」と言われることは嬉しかった。
その後もお盆なのでお客さんがきたり、地域の行事があったりと和徳の家はバタバタとしていた。
そのバタバタを客観的に見つめる事で、八郎は京都での自分がおかしかったことにだんだん気がついた。
何がそんなに自分を追い詰めたのか。
追い詰められても当然の事をしたのだから、と言う思いと、今のこの状況を何とかしたい、でも何とか成るのか?と言う色んな感情が渦巻いていた。
少し京都から離れるのも良いのかもしれない。
お盆が終わるころには、そう思うようになっていた。
八郎は、会社と相談してまた愛媛に来る事を約束して、京都に戻った。
1週間後、八郎は再び愛媛にいた。
会社に相談した所、上司も八郎の様子がおかしい事には気が付いていて、長期出張という名目で2週間の不在を許してくれたのだ。
作業着を借りて太陽の下に出ると、照りつける太陽が容赦なく八郎を襲う。
目眩がしそうだったが、みかんの木の下に入ると少し涼しいのでそれが嬉しかった。
今の時期は、摘果といって、1つの枝に成るみかんの粒を、規程の数だけにする作業を行っていた。早くしないと実がどんどん大きくなってしまうので、時間との勝負の作業だった。
確かに、猫の手も借りたいんだな、そう感じた。
八郎は一通り覚えると、一人で一つの木を任されて摘果するようになった。
時々見上げると、広がる空。目の前は葉っぱと青いみかんの小さな実。
八郎は夢中になった。
1時間ほど作業すると休憩だ、と声をかけられたが、八郎は続きがしたくて手を止めなかった。
「八郎、ゆっくりや。早くやるのもええけど、気持ちに余裕を持たんと、みかんに悪いぞ」
和徳が肩を叩いた。
促されるまま、休憩をして離れてみかんの木を眺める。
眺めると、自分の摘果が甘いことがよくわかった。
「離れると、わかるもんやなあ…」
「そやろ。体を休める目的もあるけど、こうやって離れて、もう一度眺めることでもう一度みかんと向き合える。足りないところがわかるんや。それの繰り返しや」
なるほど、と八郎は納得した。
最初の日は慣れない作業で、崩れるように寝た。精神が体の疲れに負けたのだ。
「八郎さん、顔色良くなったねえ」
1週間くらいして、典子の母がしみじみ言った。
「来た時は青白いし、死んだ魚みたいな目をしてて心配したけど、よかった。お天道様のお陰だね」
典子は余計な事を!と言う顔をしたが、典子の母は『ええんだよ』と続けた。
いつ子が兄に会いにきて、八郎の様子がおかしい。あの子の性格だから、別居した事を思い詰めすぎている。陶芸から離すのはどうかと思うが、今はそれが良いように思うので協力して欲しい。そう頭を下げたのだと言う。
それで、あんなに強引に愛媛に連れてこられたのか。
申し訳なさで八郎は心がいっぱいになった。
「ありゃ、また気持ちが沈んできたね。そう言う時は、お天道様にあたってきな。ほら!いっといで」
八郎は無理やり散歩に追い出された。
夕暮れ時、太陽が山の中に沈んでいく所だった。
秋が近づいてきているのか、夕日が辺りを真っ赤に染めていた。
八郎は、赤い夕陽を見て、自分が作った新人賞の赤い大皿を思い出した。
あれは喜美子の笑顔があったからできたんだなあ。そう思い出すと、心に針が刺さるように痛みを感じた。
ただ、嘔吐することはなかった。
少しだけ、自分の中に余裕ができてきたのがわかった。
みかんを育てると言うのは陶芸に通じるものがある。
まずは枝を選んで取り、次は花を摘む。実がなったらまたその実を摘む。そうやって選ばれた実だけが、あのオレンジ色のみかんになるのだ。
甘いかどうかは、なってみないとわからない。
陶芸と違うのは、その甘さを左右するのはお天道様だと言うこと。
どんなに丁寧にお世話をしても、天候が悪ければ甘くならない。雨も適度に降らないとそれはそれでダメ。全ての天候がうまい具合に行かないと甘くはならないのだ。
自分たちの手には負えないところを、当然のように作業をしながら、天に任せる。
そこに、神々しさを感じた。
八郎は、自分を見つめた。
自分の才能と向き合うことができず、ただただ、焦っていた。焦って全てを見失っていた。
今は、陶芸をしたい、と言う気持ちが少なくなっていた。
ずっと、この気持ちに向き合うことが怖かった。
だが、向き合ってみると、それも自分だな、と意外にすんなり受け入れられる自分がいた。
お天道様を信じてみよう。
八郎は愛媛に留まることを決めた。
太陽が山の中に沈み、夕焼けの色が濃くなっていた。
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