握手

はじめに
これは、朝ドラスカーレットを元にした妄想小説です。今回は、本編終了後のちや子さんのお話を書いてみました。


ちや子は、自分のデスクを前にして思い悩んでいた。目の前には、原稿用紙と英語で書かれた論文が、机の上に置かれた状態で2日が経過していた。

「あかんな。」

新聞記者になりたての頃、上司から徹底的に取材を行い、確実に裏を取ってから記事にする。と言うことを仕込まれたので、今回の原稿も調査をしっかり行なって書きたい、そんな気持ちがあった。だが、今の自分には取材に割く時間が殆どなく、ちや子が納得するような内容の文章が書けなくなっていた。

また、このアメリカで発表された論文を読んで内容を噛み砕いて整理したいところなのだが、これの和訳されたものがなく、その事でも途方に暮れていた。

「時間あるなら自分で頑張るんやけど…」
時間がないことを理由にするのはあまり好きではなかったが、ここは背に腹には変えられない、と思い出したように名刺を取り出し、電話をかけた。

「あ、草間さんですか?
お久しぶりです。私、庵堂です。庵堂ちや子です。」

電話の相手は草間宗一郎だった。話すのは武志の葬儀以来になる。
ちや子は今自分が置かれている状況を話し、論文の翻訳を依頼した。草間は快く引き受けてくれ、2週間以内には仕上げてくれることを約束してくれた。

その10日後だった。
草間から翻訳が終わったとの事。聞けば今は大阪にいて、できれば手渡しで原稿を渡したいと言われた。
2週間と言う期限でも申し訳なかったのに、10日で仕上げてくれた草間に対して申し訳なさと、これは直接受け取らなければならない、と言う使命感で出向くことにした。

待ち合わせの喫茶店、早めに着いたと思ったが、草間の方が先に座っていた。年齢的には60歳後半だったと思うが、背筋がピント伸びていて若々しく見え、さすが草間流だなと感心した。

ひとしきりの挨拶を交わした後ちや子は席に座ってコーヒーを注文した。
「久しぶりですね。」

2人は笑顔で向かい合った。
仕事柄、色んな人と会うし、話もする。でも、草間と向かい合うのは、喜美子からずっと話をきいていたせいなのか、変なストレスがなく心地よかった。

「そうだ。武志君へ握手の受け渡し、ちゃんとしましたよ。」
武志がまだ亡くなる前、みんなの陶芸展と言うところで、ちや子は草間と出会った。武志に会う時間がなかったので、応援している、と言う気持ちを草間に託したのだった。
その後、武志の葬儀で顔は合わせたが、そんな話をできるような場ではなかった。

もう2年も前の話なのに、ちゃんと報告してくれてなんと律儀なんだろうと感心した。
「大丈夫です。草間さんのこと、信じてましたから。」
心の底から、そう思っていた。

「お忙しそうですね。大変そうですね、議員さん。」

そう問いかけられて、普段なら「いえいえ、どんな仕事も大変ですよ」と返すところだが、今日はスッと素直にちや子の本音が出てしまった。

「ホンマ、ホンマそうなんですよ。正直ね、議員がこんなに忙しいとは思いませんでした。働く女性、子供を抱える女性の力になりたくてこの仕事始めたんですけど、実際は男社会の中で必死に呑まれないように、舐められないようにやっていくのが精一杯で、本当に彼女たちの力になれているのかどうか…新聞記者をしていた頃は、自分の筆で正義を伝えるんだと、文章が社会を変えれる、と信じていたんでですけどね。
議員なんて命の前では何の役にも立たない。武志君のドナー探しにも役立てることができなかった。時々無力感にさいなまれますわ。」

弱音と言う本当の気持ちを話す様子を、草間はゆったりとした雰囲気で話を聞いていた。

「なかなか忙しくて、本題にたどり着けない感じですか?」

「そういうことなんですかね。出された課題をこなすのに精一杯で、彼女たちの話にきちんと向き合う時間が持てなくなってきているのが現実、ですかね。」

「それじゃあ、時間があったら何をしたいですか?」

「そりゃあ、彼女たちの話を聞きたいです。
私新聞記者だったので、何か訴える時は徹底的に取材をして、その上で彼女たちの声を形にしたいと思ってるので。」

熱い思いを言葉に乗せてちや子は話した。

「それも大切なことですよね。
それとは別に、庵堂さん自身の事はどうですか?時間があったら何をしたいですか?」

ちや子は、突然の問いに時間が止まってしまったかのように動けなくなった。
「私自身が、したい事?」

「そう、庵堂さんが、したい事。
ちなみに僕は今は、プロレスを観に行きたいです。」

「プロレス?!草間流柔道やのに?」

「柔道やってても、歳しても、プロレスだって観ますよ。好きなんです。いいですよね、あの身体と体のぶつかり合い!」

ちや子はプロレスに夢中になる草間を想像してワクワクした。

「あははは、おもろいですね、これ。
そうだな、今まであんまり自分のことを考えたこなかったので、答えられなくてびっくりしてます。」

「プロレス、お嫌いです?」 
「そう言われてみたら、きっと好きな方やと思います。」
「じゃあ、これから行きましょう!」
そんな時間は…と言おうとしたが、草間の強引さに押されて、ちや子は観に行くことにした。

運良く、ちょうど興行を行なっている所があり、ちや子は、生まれて初めてプロレスを観戦した。
最初こそ、座っていたが、こう言う物は元来好きなのだろう。どんどん前のめりになり、最終的には大きな声をあげて応援していた。
その様子を見て、草間も大きな声で応援した。

「あーー、面白かったあ」

観戦が終わり、会場を後にしてちや子は天を見つめながら、大きく息を吐くように言った。

「今日気づいたんですが、私、こう言う格闘技?って言うの?好きみたいです。」
草間はニコニコしながらちや子の言葉を聞いていた。

「今、ものすごくいい顔してますよ?」
「え?私?」
そう言われて自分の顔を触ると、頬のあたりがちょっと痛いくらい笑っている事に気がついた。

「今回依頼された論文のテーマが、ワークライフバランスって言うテーマだったんです。」
「ワークライフバランス?」
「そう、何となく意味、分かります?」
「仕事…と、人生の、バランス。」
「そう、その通りでいいと思います。
これ、最近アメリカで言われ始めた事らしくてまだまだアメリカの中でさえも浸透してない言葉なんですけど、仕事と生活を統合、つまり『仕事が充実すれば、生活も充実する』『生活が充実すれば、仕事もうまくいく』という発想のもと、仕事と生活の相乗効果を期待する考え方のことなんです。」

「へえ…。」
耳慣れない言葉だけれども、その言葉の意味を理解する事が今のちや子に必要なことではないか?そう本能が言っていた。

「仕事に重きを置く場合、生活がおろそかになってしまう。生活を優先するとなると、仕事上でのキャリアアップやスキルアップを断念するしかない。といった二者択一を解消するために生み出された考え方で、あくまで、仕事と生活の両方を相反するものとして捉えて、そのバランスを取ることで両立を目指すものなんです。
僕らの世代ってがむしゃらに仕事に打ち込んできたでしょ?それが普通だったし。でも、そうすると人生の楽しみが見えなくなる。そうなると行き詰まることも多くなって、仕事の効率も悪くなる。
失礼かも知れないけど、今の庵堂さん、そうじゃないですか?」

ちや子は黙るしかなかった。
確かに新聞記者をしていた時から自分の生活は二の次で、自分の楽しいことってなんだろう、と答えられないくらいになっていた。

「それだけね、必死やったんですよ。
女性議員って言われて、常に下に見られて。ちょっとでも失敗すれば「女だから」と言われてしまう。だから、人より努力する事が当たり前になってて…でも、そうやなあ。自分の楽しみって後回しにするうちに、忘れてしもてるなあ。」
独り言のようにちや子は呟く。

「きっとね、女性として男社会の中で必死にやっていくには、それも必要だったんだと思います。だって、初めてお会いした時も、背筋がスッとして、堂々としていてとても格好良かったですよ。」

「格好いい?!」

「そしてね、このワークライフバランスって、女性だけじゃないんですよ。男性にも言える事なんです。それが素晴らしい事じゃないですか?男性も女性も関係なく、結果を求められる時代になっていくって事ですよ。そう思ったら、この訳した物は庵堂さん本人に直接お渡ししなければと思って、連絡しました。いやあー、訳しててとても面白かったです。ありがとうございました。」

そう言って、草間は翻訳された書類の入った封筒をちや子に渡した。

「あれですか?先生に礼!お互いに礼!ですか?
あ、今日は先生ちゃいますね。」
ちや子はなんとなく照れ臭くて素直に受け取る事ができず、以前聞いたことのある草間流の挨拶をしてみた。
そう言った後、お互いに笑い合っていた。

「いい笑顔です。良かった、いい顔になって」
ちや子の笑顔を見て、安心したように草間が言った。

まさか、自分が依頼した事なのに、相手にお礼を言われるとは思いもよらず、その上素直にそんなことを言える草間に対しての好感が階段を駆け上がるように登っていくのを感じた。異性に対しての感情というよりも、人間としての草間に強く惹かれる、そんな感じだった。

「あの、ご飯食べません?大きな声出したら、お腹減っちゃいました。」
「いいですね。」
「草間さん、何が食べたいですか?」
「好き嫌いはないので、なんでも。ああ、ただ、焼飯はあまり食べられないんで。それ以外で。あ、あと、もう年なんで脂っこい物は…。」
「なんでもええって、結構注文ありましたよ?まあ、ええです。そうですね、私のおすすめのお店にいきましょ。」
好き嫌いはないはずなのに焼飯が苦手なんて、何かあるな?よし、聞き出してやろう。そんないたずら心に近いものをちや子は考えていた。
そこまで考えて、こうやって他人に興味を持つのも久しぶりだということに気がついた。

ワークライフバランスはまだ新しい言葉すぎて自分の中にはまだしっくりこないが、そこは自分の持ち味でこれから徹底的に調べよう。それよりも、他人に興味を持った今の感情を大切にしていこう、そう思いながら、2人は他愛もない話をしながら歩いて行った。


あとがき
本編終了間際、ちや子さんと草間さんの握手の場面がありました。あれで、何か新しい関係が生まれたことがわかりました。
その後を勝手に妄想して書いてみました。今も、妄想を掻き立ててくれる朝ドラスカーレットにお礼を言いたいです。
なお、これは私の完全なる妄想なので、本編とは全く関係ありませんで、あしからずです。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?