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或男

(1)
先生は私を傍にに引き寄せた。しかし、視線は遠くを見たまま。軀の半分が違う世界に溶けている。
私はその半分が欲しくなって、いつもよりハッキリと声をかけてみた
「先生」
先生は私を一瞥したが、また、同じ姿勢になる。

だけれど、半身は私を掴んだままだ。


(2)
もう何日眠っていないのだろう。今日は何か口にしたのか?
そんな思考を頭に思い浮かべることさえも面倒になっていた。
「先生」
遠くの方から、やたらはっきりと俺の耳に飛び込んできた。
思わず声のする方に振り返るが、誰もいない。

ただ、軀の半分の温もりに気がついた。

(3)
出会いは舞台茶屋だった。
芝居が終わった後、連れの人に今観たお芝居の感激をそのまま感情に乗せて喋っていたら、いつのまにか相手が変わっていた。
私はビックリしすぎてその場をただ黙って立ち去ろうとした。見知らぬ人に話しかけていたことよりも、「女のくせに芝居の感想なんて」そう言われるのが怖かったのだ。

立ち去ろうとした私の背中に飛び込んできた言葉に思わず立ち止まり、振り向いた。


(4)
「もう少しその声を聞かせて欲しい」
俺は気がついたらそう声をかけていた。
別段美声だった訳でも話が面白かった訳でもない。
何故だかわからないが、声をかけていた。


(5)
それから、お互いのことを話すまで時間は掛からなかった。
男は小説家として近くに居を構えていること、女はカフェーの女給として働き家族を支えていること。
必然のように、女は男の家に出入りするようになった。

(6)
先生との時間は刹那的ではあるが、何故だか心のある場所に座り込むような感覚でもあった。
ただ、先生はいつも遠くを見ていて私を抱き寄せていても心はそこにはなく、どこか遠い世界に溶けてしまっているようだった。抱きしめられているのに、そこに彼はいない。
どこにいるのだろう。
考え出すと何故だか心が踊った。
違う世界に溶けていく、そんな感覚を一緒に感じ取れることが楽しかった。

(7)
何故私は女を招き入れているのだろう。
女は時々気分が昂まった時に必要になる程度だったはずだ。
そんな疑問がふと我に帰った時に湧き上がるが、それを打ち消すでもなく、女はそこに居た。
「先生」
そう、はっきりと耳に飛び込んできたのはそんな時だった。
そのうち、身体の半分が温かい事に気がつき自分の軀を見やると女が居た。当然のように、ずっとそこに居たかのように、自分の中に居た。

視界が広がったような感覚、広い草原の中、小さい白い花を見つけたような…
「名前で呼んでくれないか、華。」
その存在を確かめたくて呟いていた。


(8)
「華」
そういうと、片手で抱き寄せていた私を一度引き剥がし、今度は両手でしっかりと抱き寄せた。これまで幾度も抱き寄せられてきた。でも今のは、違う。私を愛しむように包み込んでくれている。
私は顔が紅くなるのが自分でもわかった。この人が私を見てくれる、私の世界に居る。そのことがこんなにも嬉しいだなんて。
「はい、コウジさん」
そう言葉にすると、春の穏やかな風が、私たちを包んでいた。
それを、2人で感じていた。


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