笹井宏之の「私」

【引用文献】笹井宏之『ひとさらい』(二〇一一、書肆侃侃房)

笹井宏之第一歌集『ひとさらい』から、「わたし」「わたしたち」(一人称)を含む短歌を全て抜き出してみる。

すると、「わたし」が15例、「わたしたち」が2例見つかった。
具体的には、「私」10例、「わたし」3例、「わたくし」2例、「私たち」1例、「わたしたち」1例である。

ここから一歩踏み込んで、「わたし」を次のように分類してみた。

ひと…7首
もの…6種
ひと+もの…4種


「わたし」として【ひと】が想定される歌は6首である。

星が甘いのを知っている私たちの頭上で出産しはじめる獅子

この歌は、星を食べてしまう私たちと、補充するために星を産む獅子(座)の歌と理解できるだろう。「わたし」が【ひと】であっても現実・等身大の「わたし」とは限らない。


「わたし」として【もの】が想定される歌は、同様に6首である。【もの】とは、正確には人以外のことだ。

ひとたびのひかりのなかでわたくしはいたみをわけるステーキナイフ
しあわせな着物を拾う 私もう表現です めくるめく表現です

「わたし」がそれぞれ「ステーキナイフ」「表現」になっている。前者の歌は「ひとたびのひかり」と「わたくし」(の人生)と「いたみ」、「ひかり」と「ステーキナイフ」、「ステーキナイフ」と「わける」にゆるやかな連関がある。後者の歌は「私もう表現です」と語っているの語り手か「着物」自身か区別できないが、ここでは「私」が着物を拾ったことで「表現」になったと解釈したい。
どちらも意味がとりにくい歌である。それは、「ステーキナイフ」「着物」という【もの】に趣意の大部分が託されているために、読者は【もの】に感情移入しなければならないからだろう。


【ひともの】とは、人から物に変化する歌や、「私という○○(もの)」といった表現で人か物か区別できない歌、またおそらく人である語り手を物のように扱った歌を分類した。【ひと】と【もの】双方の性質が含まれている歌と言おうか。

家を描く水彩画家に囲まれて私は家になってゆきます

たとえば、「私」の家が大変魅力的な建築物であり、水彩画家がこぞってスケッチしているとしよう。「私」は窓からその姿を見て、自分が水彩絵具の一色として、また絵の一部として、家と一体化するのを感じる……というのが一つの筋の通った解釈になるだろうか。
しかし、この解釈では大切な要素が失われてしまう。テクストを追えば、家になりはじめているのは絵の中の「私」ではなく現実の「私」である。彼らの描く水彩画とは別に、私が心象として、あるいは非現実として家になっているのである。先の解釈からあふれる要素にも目を向けたい。



ここから、たとえば次のようなことが言えるだろう。短歌がまず、作者を「わたし」に、作者の感情を歌全体に託す文芸だと考えるならば、上述した歌はこのどちらにも属さないように思われる。笹井宏之の歌のいくつかにおいては、「わたし」は【もの】に変化する、あるいは【もの】自体である。そして、「わたし」の感情は【もの】の性質に依拠したものとなっているため、【ひと】が抱く感情や主張の類型では捉えきれない要素を持つ。このように、「わたし」が【もの】である歌は、作者と結びつけることが非常に難しい。

これは、短歌の「私」性から脱却する手段として極めて優れているように感じる。「私」が大きな意味を持つ文芸だからこそ、固有の作者像に回収されない「わたし」を描く歌が大変魅力的に映るのだ。

実作にどう活かすかは、僕の今後の課題としたい。

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