『ひと』(作:小野寺史宜)を読了して

挨拶

今回は読書ノートを書きます
これは、自身が読書を通じて思ったことを言語化し、その言語化を通して他の事象に対しても言語化できるようになるため、に行おうと思います

今回は、タイトルにもある通り、『ひと』という作品について記します

注:作者の主観的なコメントを記載したものですので、解釈に正解も何もないと思いますので、その前提で読んでいただけますと幸いです。

概略

下手に僕がまとめるよりも、Amazonの商品欄から引用しつつ、言葉を付け足す形で概略を記したいと思います

母の故郷の鳥取で店を開くも失敗、交通事故死した調理師の父。女手ひとつ、学食で働きながら一人っ子の

僕を東京の大学に進ませてくれた母。――その母が急死した。柏木聖輔は二十歳の秋、たった一人になった。

全財産は百五十万円、奨学金を返せる自信はなく、大学は中退。仕事を探さなければと思いつつ、動き出せ

ない日々が続いた。そんなある日の午後、空腹に負けて吸い寄せられた商店街の総菜屋で、買おうとしていた

最後に残った五十円コロッケを見知らぬお婆さんに譲った。それが運命を変えるとも知らずに……。

そんな君を見ている人が、きっといる――。

Amazon『まち』商品ページより

この通り主人公は、私と同じく大学生の年齢でありながら、両親を別々のタイミングで亡くしてしまい、天涯孤独になります
その孤独な主人公を軸にして物語がつづられます

主にこの主人公が「孤独の中で人とどう関わっていくのか、その人たちに対してのどのような感情を抱き、接するのか」という点に着目を当てられるのではないか、と私は考えています

その点に着目しながら読むとより一層、この本を楽しめるのではないかと感じます

ここから先は、「ひと」を読了中/読了後に私が感じたことをつづりたいと思います

章のタイトルの移り変わり

始めに記したいのは、タイトルという形式的な面についての感想です

読了後、もう一度パラパラとページを捲ると一つのことに気づきました。
それは「タイトル」がある章を境として「一人の○○」と「○○」に区切られていることです

そこで、境界となるページを見てみると以下のような文章を最終文として、章が閉じられます

「あぁ。僕はこの人が好きなんだな」

このシーンで主人公は、自分が登場人物の一人(=青葉)を愛していることに気づきます

このセリフまでの主人公は天涯孤独になったことから、自分は多くのものをあきらめざるを得ないことを自分の中の前提として置き、物事を考えてしまいます

高校生の時に始めたベースも同僚である年上女性の子供に譲り、多くのことにピリオドを打ち続けました

しかし、周りの登場人物たちは主人公にやさしく接してくれ、「いつでも頼りなさい」と言ってくれます

それでも、自分の身上を理解している主人公は物事に対して諦念を持ちつつ生活を送ることで物語が進みます

そしてある日、そんな主人公に対して、青葉(主人公の意中の人)は「すべてをあきらめなくってもいいんじゃない」といった趣旨の言葉をかけます

文面に書かれてはいませんがそんな言葉が、諦念という堤防を決壊させ、「全てをあきらめる必要性はないのではないか」という気持ちにさせたのではないか、と感じました

そして、このページを皮切りに「家族を失った主人公は一人ではない。血縁がなくても、それでも彼のことを大切に思ってくれる人がいる」ということを実感させてくれるような物語が続きます

それを形式的に表したこの一言、この形式的変化はすごいなぁ、と感服していました

見過ごされがちな人間存在の儚さと孤独

失ってから気づくもの、その代表例こそが「人間存在」だと感じさせられました

冒頭の概要でも記載した通り、この小説内では、主人公の両親が無くなってしまいます
そんな主人公の境遇は、不遇なものだと言えるでしょう

そんな主人公は「両親の馴れ初めを聞いたことはなかった。父親が無くなってしまったときに母親にでも聞いておけばよかった」「折に触れて両親のことを思い出すのだろう」といった趣旨の発言をします

この発言を読んだ際に、私は人間存在は失ってからその重さに気づくのだろうと感じました

私は、人間というのものは計測する単位が無いものを軽量するためには、それを一度失ってみないと、その真なる価値が理解できないのだと思います

というのも、計測のための単位がなく一点に定まらないため、自分でその単位(=価値)を定義するしかなく、その定義は文脈によって左右されてしまうからです

その前提を基に考えると、喪失してから文脈が一点に定まるため計測ができるようになるが、その文脈において人間は大切な人であればあるほど、その存在の重さを、大切さを身に染みて感じつのだと思うのです

そんなことを思って、人間存在というのがいかに儚いものなのか、ということ理解できました。

この小説は孤独を主題に扱っているそうですが、そんな孤独というものもこの「儚さ」という点から考えることが出来るのではと感じました

というのも、人間存在はその重量を無くなった時にしか計測することができない。そしてその存在の重さは文脈によって定義されてしまう。すると、時間という文脈の1つがその人間存在の重さを軽くしてしまうのです

その時にどれだけ悲しまれたとしても、時間がその悲しさを風化させていく、その様は日々起こる殺人事件の風化の様と似ているような気がします
(そう考えると人間はそういう風にできているのかもしれませんね。)

そしてこの現象はなぜ起こるのか、極論その現象が自分には関係がないからです。

そうして、人はその存在の軽さを抱えて生きて言うしかない。どこまで行ったって他人は他人という境界線の中で生きざるを得ない。

それを「孤独」と呼ぶのではないでしょうか

そう思い、この人間存在の儚さを嘆きつつ書き記しました。

終わりに

ここまで読んでくださりありがとうございました、

まだまだ冗長な文章になってしまい失礼しました

それに悲観的な見方をしてしまって、暗い気持ちになってしまったかもしれません

僕自身書いている最中に「暗いなー、なんやこの悲劇調の文章は」と思いました

でも特にこの人間存在の軽さという儚さを前提にすると多くのことが見えてきたりもするんじゃないかなと思います

それは「責任をほっぽりだすことは絶対悪ではない」ということだと思います

責任感がない、と言われたりする世の中ですが、時として逃げてもいいと思うのです。それで自身の人生にピリオドを打ったり、立ち直れなくなるくらいなら、逃げてしまった方がいいと思うのです

僕自身も鬱状態に近い時期があったので、逃げるという選択肢が見えないのはすごく理解できます

だからこそ、周りの人が気づいてあげて、その状態をサポートしてあげられるような状態になったらいいと思いますし、その「逃げる」という選択を支持してあげて欲しいのなと思います

すべてから逃げろ言っているのではありません、それは僕的にも支持はしにくい考え方です

それでも、それでも自分がつらくなったら逃げてほしい

あなたの存在は軽いけど逆説的にはだれか変わりがいるから、そしてその選択を支持してくれる誰かもいるだろうから

そんなことを改めて感じられた作品だったのかなと思います

こんな感じで筆をおきたいと思います、

また気が向いた際に筆をとろうかと思います


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