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長編伝奇小説を読もう【読書記録:駒田信二訳『水滸伝(一)』

 ひょんなことから、講談社文庫版の『水滸伝』全八巻を譲り受けた。『封神演義』『三国志演義』『西遊記』など、中国で生まれた著名な長編小説は好んで読んできたのだが、『水滸伝』は未読であったので、楽しんで読み始めた。
 なお、私が今回読んでいるものは1984年に初版が出たもので、少々読みにくい部分もある。これはこれで古典を読んでいる感覚があって乙なものだが、2017年に新訳版が講談社学術文庫より刊行されているようなので、今から読まれる方はこちらのほうがとっつきやすいかもしれない。
 どちらも、講談社のサイトに詳しい紹介があるので、下記にリンクを記載する。

こちらが筆者が読んだ1984年版

こちらが最新の2017年版


 さて。全八巻なので、通しで読んでから感想文を書こうかとも思ったのだが、記憶が確かなうちに印象を記しておきたい。
 『水滸伝』の名を聞いたことがあっても、あらすじは知らないという方のために、『水滸伝(一)』裏表紙の内容紹介を引用しよう。

江西こうせいの竜虎山は道教の大本山である。そこの伏魔之殿に昔から封じこめられていた妖魔を誤って逃がしたばかりに、三十六員の天罡星てんこうせいがこの世に臨み、七十二座の地煞星ちさつせいが下界におりて宋国の乾坤を揺るがす。――梁山泊に屯集して世間を騒がす百八人の好漢おとこだての事跡を描く中国四大奇書の一つ、大長編伝奇小説の完訳。

駒田信二訳『水滸伝(一)』裏表紙

 ……よくわからない。筆者も本を手に取り、困惑した覚えがある。しか し、内容を読んでだいぶ謎が解けたので、少々補足を加えることにする。

 時代設定は北宋の末期(12世紀初頭)である。徽宗の時代に実際に起こった動乱をモチーフに、16世紀半ばに成立したとの説が有力なようだ。当時、高官たちの不正と汚職が横行し、民衆の生活は困窮していた。能力のある武人や知識人も、不当に虐げられ、左遷・投獄の憂き目にあう。そんな中、義侠心に溢れた百八人の好漢たちは、各地で戦いを繰り広げながら「梁山泊」に集結する。一度は国家軍として認められた彼らだったが、やがて反乱分子とみなされ、壊滅することになる。
 水滸伝は、義に厚く武に秀でる男たちの軌跡を辿る、伝奇小説なのである。

 ところで、天罡星てんこうせい地煞星ちさつせいが云々、というのは、百八人の好漢たちそれぞれが、封印から解き放たれた魔星の生まれ変わりであるという設定の説明である。
 水滸伝の冒頭は、三十六員の天罡星てんこうせいと七十二座の地煞星ちさつせい、足して百八の魔星が竜虎山の封印から解き放たれ、各地に散らばるところから始まる。

 魔星の生まれ変わりである男たちの生涯を中心に、物語は展開するのだが――先述のとおり、『封神演義』『三国志演義』『西遊記』などに親しんできた筆者は、『水滸伝』の登場人物たちに仰天することになった。

 『三国志演義』はご存じのとおり、三国時代の動乱に材をとり、蜀を中心として英傑たちの活躍を描く物語である。戦記としての性質がある以上、ばったばったと人が死んでいくわけだが、その戦いは大義のもとに行われ、登場人物たちもまったくの乱暴者というひとは少ない。
 『封神演義』も同様だ。殷から周への王朝の交代に、妖魔や仙人たちの活躍を絡める物語では、死者は多いもののそれぞれがそれぞれの目的のもとに戦っている。
 『西遊記』の孫悟空は、序盤は乱暴者だが、観音菩薩と三蔵法師に諫められ、徐々に人間の命は取らず懲らしめるだけになっていく。

 ……とまあ、中国の白話小説の多くはそのような具合なのだが、『水滸伝』は違う。
 主人公である好漢たちは、ほぼ例外なく、短気ですぐに手が出るタイプだ。一巻において中心人物になる魯智深は、とある父娘の理不尽な借金を救おうとするが、正当な逮捕状もなしに乗り込んだ上、相手を殴り殺してしまい、殺人犯として手配されることとなる。逮捕を逃れるために出家するが、肉食・飲酒を絶つことができず、寺で問題を起こし、追い出されてしまう。
 魯智深はその後も、古刹を焼き払ったり、盗賊と親交を結んだりとやりたい放題である。

 魯智深だけではない。もう少し常識的なふうに登場した林冲は、美人の妻を上役の息子に狙われたために、無実の罪を負い、流刑地でも命を狙う刺客と戦うことになる。その過程で刺客を殺してしまうのは、まあ物語としておかしくないのだが、その後酒を分けてもらえなかったために見ず知らずの農民たちを槍の柄で滅多打ちにしたりする。それまで林冲を、少々かっとしやすいが真っ当な感覚のキャラクターだと思っていた筆者は、問題のシーンで天を仰いでしまった。

 兎に角、好漢たちは、笑ってしまうほどに怒りっぽく、感情的で、いささか乱暴なのである。まあ、そもそもが侠客を主人公とする物語なのだから、当然かもしれない。

 だからといって物語が残忍なだけの退屈なものかと言うと、そんなことはない。
 上記に挙げた魯智深と林冲は、筆者のお気に入りキャラクターたちだ。これほど悪しざまに書いたが、なんだかふたりとも憎めない。
 『西遊記』で三蔵法師一行の行く手を阻んだ盗賊たち、その盗賊サイドが主人公なのが『水滸伝』だ。主人公たちが平然と、強盗の算段を立てていたりする。それが許せるひとならば、この中国古典名著を楽しめることだろう。

 かくいう筆者は、あと七巻もこの物語を楽しめることが嬉しくてならない。また節目の折には、記事にまとめる所存である。

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