「のだめカンタービレ」を読み返して思ったこと。

 2020年9月20日現在、ドラマが再放送中ということで、「のだめカンタービレ」を買い集めて読み返したので改めて。「僕が思うに(酔っ払いながら)」というのが大前提です。


 話の序盤は「のだめ」の名前を冠しながらも「千秋先輩の変化」が物語の主軸だと思いながら読んだ。というのも、明らかにどん底に落ちて音楽の道を止めることも考えた千秋先輩が、のだめに出会ってから変転していくから。


 逆にいうと序盤ののだめ本人にはほぼ変化がない。唯一あるのが「みんなが噂している千秋先輩に(恋愛的に)本気で惚れる」のみ。これは作品の主軸である「音楽」ではない。


 転機はのだめの催眠術。千秋先輩が本格的に音楽への道を歩む中、ミルヒー(これは愛称だが作品の(野田恵本人)テーマからするとこちらの方が主)に「このままだと一緒にいられなくなる」と言われ焦りだすのだめ。音楽がどうこうというより「千秋先輩と一緒にいたい」が為に、ハリセンに学びコンクールを目指すという、トラウマでもあった事柄と向き合う(この時点では、のだめにとっては音楽に向き合った「つもり」なだけ)。


 終盤のオクレール先生が語る「あの子はこの業界が嫌い」発言は、ここに関連しており、音楽に限らず表現活動はそもそも自由なものでありながらも、クラシックやコンクールは目指すべき指標や評価点がはっきりしている、というダブルバインドに作中通してのだめは苛まれている(のだめ本人の表現は評価されながらも、コンクール的評価は得られず、千秋先輩に近づくにはコンクール的評価を得なければならない)。


 これらを関係なくぶち壊してくれたのがシュトレーゼマン。彼はのだめの音楽を評価しつつも、自分が(生命的にも音楽家的にも)死ぬ前に楽しみたいという、100%我が身のためにオーケストラに誘う(その結果自分は艶々してオクレール先生からは激怒される)。生命的な寿命があとどれくらいかは作品の中で言及されていないけれど、同世代の音楽家の死去、咳をする描写などから、そう遠くない未来なのかなと思う。


 自分が楽しみたいシュトレーゼマン、真の意味での「音楽家」にさせてあげたいオクレール先生。この人たちの思惑があった上で、最後に作品のテーマをまとめたのが千秋先輩。千秋先輩は、「自分が好きなのだめの音楽と共に、2人で楽しむ人生を生きていきたい」というある種2人の先生の思惑の折衷案のようなものに、最後はたどり着く。


 本編最終巻では谷岡先生クラスで初めて演奏した時と同様、のだめが千秋先輩に惚れる。序盤と終盤で実際に描かれていることの違いは、千秋先輩がのだめを抱きしめることなのだが一番重要な違いは、のだめが「千秋先輩に(恋愛的に)惚れる」ことから、「千秋先輩に(音楽と共に生きるパートナーとして)惚れる」ことだと思う。だからこそ千秋先輩はのだめを拒否せず、その生き方と自分に惚れてくれたのだめを受け入れたのだと思う。その対比が美しい。

 ここから自分語り。音楽に限らず、世の中で生きている人間が、「その道で生きていく」と決める要因ってどういうこと?それがある人、ない人はどうやって生きていくのだろうか。

 容姿に惚れる、考え方に惚れる、趣味嗜好に惚れるetc、色々あるけれど「その人の生き方に惚れる」って、まだ生ききってない段階で判断できることが凄いなあと思う。その人の可能性に惚れるのか?

 自分の才と感心と出来ること。どこにどう折り合いをつけて生きていくのだろうか。そんなことを思いながらストロングゼロで酔う26の夜。何年経っても千秋先輩は千秋先輩と呼んでしまう。大学生とか社会人とか遠くの世界だったような気がする。


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