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星野道夫と言葉


昨年末、星野道夫写真展『悠久の時を旅する』を訪れた。
その時のことが自分の中で薄れ始めてきたのを感じたので、崩さぬように、そっと辿って文字にしようと思う。

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私は、写真に映る数々の動物たちから溢れる、
『静かな力強さ』のようなものに強く惹かれていた

もう少し言葉を区切るなら、彼らの持つ『本能』だろうか

季節が巡り、一つの方角めがけて進むカリブーの大群や、
長い冬眠から目が覚め、春の空気の中佇む熊の姿


静かな力強さとはなんだろう
そして、私はそれのどこに惹かれているのだろう

会場に並べられた沢山の写真と、
写真の奥にある、写らない何かに目を凝らし手繰り寄せようとした


そして、もしかしたら、それは
彼らが『言葉にしていない』ことかもしれない、と思った


自分の目に入る様々な事象について、
その情報を客観的に捉えてみたり、もしくは主観的に感じたことを、言葉にしていない
ただそこにあるものと、繋ぎ目なく混じり合っている

どんなことでも、ある事象を言葉にすると
それが誰かのためや自分自身のためのものになっていく感覚がある
『ただそこにあるもの』から、少し離れてしまうような

そうなることが悪いと思っているわけではない

ただ、言葉は、大きな境を持っているのも確かだと思う

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話は変わるが、展示の後半に飾られていた星野さんの言葉がどうしようもないくらい全身に沁みていった

『人間のためでも誰のためでもなく、
それ自身の存在ために息づく自然の気配に、
僕たちは心を動かされていた』

そして、言葉が沁みていくのを感じながら、
今、私は言葉にしてもらうことで、この濁りのない状態になっていることにも気づいた

さっきまで、言葉は事象を実際のものから遠ざけてしまうかもしれないと思っていたのに

ちょっと思考が止まらなくなりそう
今日はこれで終わり


(メモ)
濾過、濁りのない、苦しい、1人
言葉遊び、お笑い、わざとショートカットしてるから面白い?



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