かぐや姫の物語 10th Anniversary
2023/11/23で10周年
早いものでもう日本公開から10年が経過しようとしている。また高畑勲監督の他界からも5年が経過し隔世の感がある。
個人的には学生時代高畑監督の授業を受けたことがある恩師であり、また個人的にも最も注目する監督の一人であったため思い入れはひとしおである。
大赤字に終わった興行収入
多額の制作費(51.5億)を投じたもののペイラインを大きく割り込み、24.7億にとどまってしまった。
(慣例として言われていることは、興行収益の半分は興行主つまり映画館に回収され、残る1/2のうちの半分は配給元(または製作委員会)に行くため、制作会社は額面の1/4しか回収はできないことを考えると、相当な期末損失を抱えたことだろう。
それでも映画の出来は抜群
しかしそれでも映画の出来自体は抜群に良かったと個人的に思える。というわけで今回はかぐや姫の物語を改めて解説してみたい。
特に、某YouTubeや映画情報サイトなどの解説は、どうもピントがズレたものやバズることを念頭に「本当は怖い◯◯」的な枝葉の隠し要素や、よくありがちな本当は性的なメタファーがどうこうというフロイト的ないい加減な分析(この分析の厄介なところは「無意識・深層」などを盾に取ってしまうので、結局誰にも検証・追試の仕様がないという半分チート的な手法である部分)
そういった枝葉部分に終始してしまい、この映画をそもそも真正面から考えた解説がほとんどと言っていいほどないのが現状ではないかと勝手に思っている。
※ちなみにバズることを念頭においたレビューや枝葉的なものが悪いとは思っていない。自分自身そういうものを書くこともある。ただそれはあくまでもまずちゃんと正面からボールをキャッチしたものが人口に膾炙している前提で行われるべきだと思われる。
では真正面から見た場合、ずばりこの映画のテーマは「生と死」である。
すべての創作物は究極的には生と死を描くことが最終的なテーマではあるが、ここまでその究極のテーマに真っ向から挑んだ作品はそう多くはないと思う。巨匠高畑勲が総決算として、その究極のテーマに小細工無用で挑んだ。だからこそこの映画は遺作として充分な総決算感を持つ。
しなし一方で、あまりにどストレートなテーマであるために、複雑にそれを考え過ぎてしまいテーマを散逸している視聴者もいるのではないかと思ったりする…。
いやー前置きが長いな。では解説をはじめますね。
解説に必要なものは下記3点。
①原作:竹取物語 ②仏教基礎教養(浄土信仰) ③紀貫之
紀貫之?なんで?と思った方もいるかと思います。
その理由としては、原作の竹取物語は作者として昔から紀貫之説があること(説に過ぎませんが)
そして、この映画で登場する「わらべうた」の月バージョン最終行には、古今和歌集から引用がなされています。これは原作にはない要素です。
「古今和歌集」は選者が紀貫之であることがわかっています。
また付け加えると、実はこの映画自体が「もののあはれ」論と実は密接な展開を見せています。「もののあはれ」とは、「土佐日記」において紀貫之が歴史上初めて提唱した概念です。
本映画を制作するにあたり高畑監督はおそらく紀貫之を一旦竹取物語の作者と仮置きし、紀貫之のことも相当調べたのではないか、と思える箇所がいくつか登場します。
映画公開時は、高畑勲が「日本最古の物語に挑む」的な宣伝をしていましたが、実はそれだけではありません。実は同時に「日本史上最高の歌人とされる紀貫之」にも挑戦していたのではないのかと思えます。
詳しくは後で解説します。
「姫が犯した罪と罰」
まずここから紐解いていきましょう。
高畑勲監督は、実はかぐや姫の映画化は半世紀ほど前から企画自体はあったそうです。
しかし、監督はある一点がどうしても納得ができず、映画化することができなかった。それは原作の下記の部分。
かぐや姫は月で何かの罪を犯し、そのために刑罰として卑しき地である地上へと送られた。と書かれています。しかし
何の罪状なのか?
地球に送られることのどこが刑罰に相当するのか?
そしてなぜその刑が解けたのか?
このようなことが高畑監督にもずっとわからなかったのです。また監督は上記のことに加え、記憶自意識失う天の羽衣を着てしまう月の世界に、どんな罪が存在し得るというのか?などもどうも理解できなかった。
しかし、これにブレイクスルーが訪れます。
高畑監督の中で、これぞという辻褄が全て合うヒントが見つかった。
それは「浄土信仰」です。
浄土信仰とは、仏の道に帰依していれば死んだら極楽浄土へ行くことができるという考え、そしてその考えを信仰の中心的なものとして捉える仏教の宗派です。
高畑監督はまず月の使者のお迎えシーンを原作や原作を元にした竹取物語絵巻から脚色し、阿弥陀来迎図へと思い切った再解釈でデザインチェンジを行いました。
来迎図というのは、人が往生した時に阿弥陀様が極楽浄土への「お迎え」に来てくれるシーンの仏教画です。
つまり、月とは極楽浄土がある場所であり、かぐや姫は極楽浄土から穢土(仏教でいう地上の人間世界)へと送られ、そして最後に極楽へと戻っていったのだ、という解釈をしたことがここからわかります。
来迎図自体は8世紀の唐の時代の曼荼羅の中にも描かれ、日本でも當麻寺に保管されている当麻曼荼羅の一部にその場面があるため、竹取物語が成立したとされる9世紀〜10世紀ごろにはすでに日本にあったと思われます。
浄土信仰はその後鎌倉時代に親鸞などで一斉に流行し、今では浄土系といえば最大宗派ですが、今回はそこまでの知識はいらないので飛ばします。
いずれにせよ、この脚色から考えて、かぐや姫が犯した罪とは何だったかのヒントは、極楽から見た場合の「罪」= つまり仏の教えに反する事をした「罪」であるということがここでまず決定します。
それは「生への執着」「人の情けへの憧れ」= もののあはれ
かぐや姫は、地球にかつて送られた月の住人が、下記の歌を歌いながら涙を流す光景を目にし、地上の生命・そして人の情けに憧れを抱くことになります。
さて歌の基本は輪廻転生について歌っていることが見て取れます。輪廻転生とは仏教的には地上の衆生の間にだけ起こることで、極楽浄土、悟りの世界ではもはやこれは起こらない現象です。
また、この最終行が冒頭で説明した、古今集に収められている在原行平の歌です。中央から因幡(鳥取県)という僻地へと左遷された行平が、都へと残してきた恋人への寂しさを歌った歌です。
かぐや姫は、この歌に心を動かされたわけですが、仏の教えでは輪廻を繰り返すのはまだ悟りへと至れていない衆生だからこそです。また、恋人への恋愛感情や執着というのも典型的に現世的で未熟な執着心、となります。
だから極楽にいるくせに現世欲求に憧れたかぐや姫を仏は「こいつ悟ってねぇ」と問題視したわけです。
計画された刑罰
そこで仏が行ったことは単純明快です。
「衆生の世界がそんなに良いのなら体験してみれば良い。人間のエゴに塗れて苦しみ、人生なんて苦しみ(一切皆苦)しかないことを思い知るが良い。」
仏はそう考えてかぐや姫を地上へと送ります。
なんとなく見逃しがちな、竹の中に追加で仕送りされる砂金のような財宝、美しい大量の着物類。
あれも実際には仏が計画的に支給したアイテムであり、人間界における「物欲」「色欲」「出世欲」など、あらゆる醜いエゴをかぐや姫にトライアルさせるために、全て筋書き通りの仕込みの罰ゲームなわけです。その手のひらの上でまんまと翁も嫗も帝も踊らされているに過ぎないことがわかってきます。
さてでは、この刑はどうなれば終わるのか?
それも簡単です。かぐや姫が「生」の世界に憧れたことの間違いを身をもって証明させるわけですから、彼女に「生」を否定させれば良いわけです。
つまり言い換えると、かぐや姫の中に「希死念慮」が起こった時、その時にこそやはり仏が正しかった、かぐや姫は間違っていた、完敗だ。ということになるわけです。
かぐや姫の襲名式で、夜中に家を裸足のまま飛び出し故郷へと帰ろうした日、はじめてかぐや姫は死にたいと思ってしまいました。
そんなかぐや姫を月(仏の世界)が見下ろしているカットがしっかり挿入されます。
また終盤では帝の破廉恥行為により、またもかぐや姫は「もう死にたい」と思います。その時にもまた、湖面に映り込んで歪んだ月が彼女を見ていることが示唆されるカットが入っています。
彼女が死にたいという気持ちを持った時に、その気持ちがGPSのようにすぐさま月に送られ、「OK、ギブアップしたね?」という判断により、彼女のお迎えが決定するわけです。
しかし生とは苦しみだけなのか?
ここまでで映画が終わってしまうと、それでは単なる生の否定で終わりますよね。
しかし監督はここで原作には存在しないオリキャラを登場させています。捨丸兄さんです。
かぐや姫と捨丸の飛行シーンはジブリ中でも最高のカタルシスのあるシーンだと思います。
原作の竹取物語では、エピローグの大トリは帝が登場します。不死の秘薬を焼き捨て歌を読むロマンスシーンですが、高畑監督はこのシーンをくだらないと完全にカットし、代わりに捨丸にクライマックスを担当させているのです。
この意味は帝と捨丸の違いを考えれば自ずとわかります。違いと言っても、別にそれは社会的な階層が、というような小難しい意味で捉えなくて大丈夫です。
捨丸という人物は、序盤にかぐや姫と他人の畑の瓜を盗みます。その後、二人が縁遠くなってから、洛外でたまたま見かけた捨丸も、まーた盗み(にわとり)をやってます。
そして極め付けは飛行シーンで妻子捨て丸になります。
つまり、この人物は徹頭徹尾、人の世のルール、家庭のルール、男女のルールなどをバンバンはしから破っていく無法者ロールを最初からしっかり割り当てられているわけです。
ですから、仏のルールも無論破ろうとします。
「どこに逃げてももうすでに見つかっている、なぜなら生き物にとって絶対に逃げたくても逃げようがないものだから(=死)」
と嘆くかぐや姫に対して、「はあ?だからなんなんだよ? 逃げたいんだったら逃げれば良い。そんなの関係ねえ!」と捨丸がルールにあまりに無謀に真っ向から反抗します。
しかし、この態度がかぐや姫にとっても、そして観客にとっても、実は最大の慧眼だったわけです。
生き物にとって死というものは絶対に逃がれようのないものです。
しかし、それでも死が訪れるその日まで、必死にもがけばいいだけじゃないか、全力を尽くして生きようとすればいいじゃないか、それがそもそも生命というものの輝きの本質部分なのだから。
限られた生命の中で、限られた時間の中で、精一杯に桜は美しく咲き、そして見事に全て散っていきます。あの時月で感動したものの正体は、これだった。
かぐや姫はこの捨丸の態度にこそ笑顔を取り戻し、そして2人は太陽(月=死とは逆の象徴)に向かって飛翔するのです。これほど生に向かって飛び立つカタルシスのあるシーンが過去にあるでしょうか、見事な演出です。
さて、この必ず終わりあるものが持つ、根底に有限の悲哀を伴った美、それが「もののあはれ」という言葉が持つ概念です。モノは必ずいつか壊れる、その悲しさを常に内側に抱えているからこそ美しいのだ、それがもののあはれです。
この結論に至っているからこそ、この映画はまさに生と死の両局面をとてもよく描けた、ストレート・オブ・ストレート、王道映画であると言えるわけです。
冒頭申し上げた通り、紀貫之という人は、土佐日記において、はじめて「もののあはれ」という概念を定義づけた人物です。
そしてまた彼は天皇からの勅命で、「生きとし生けるものは全て歌を歌う」という序文から始まる和歌の大集成、古今和歌集を作りました。
さて、かぐや姫が月で歌をきき、生きとし生けるもの全てと戯れ、限りある時間の中で生きるものたちのあはれを知る、という全体ストーリーの運び自体が、実はこの紀貫之の仮名序と見事なまでに一致したものになっていることに気づいたでしょうか?
赤ん坊時代のかぐや姫はまず蛙を見つけ喜びます。それから鶯を見て笑います。他にも、瓜坊、渡り鳥、蜘蛛などたくさんの生き物たちが本編中には出てきます。まさに生きとし生けるものたち全てが歌を歌い、彼女はただただ生命を目にできたことがたまらなく嬉しかったのです。まずこの事をストレートに鑑賞してほしいのです。
(岡田斗司夫氏はカエルは性のメタファーなどと言っていましたが、そんなひねった分析は、高畑勲と紀貫之という天才の前ではほとんど瑣末な感想に過ぎないこと、もうわかるはずです・・岡田斗司夫好きだけど)
以上、もう少し和歌の分析なんかもやろうかと思いましたが、そちらは私のYouTubeチャンネルでやっているので、興味がある方は探してみてください(力尽きた!)
ではではごきげんよう!
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