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プロフィールアレルギー

 プロフィールの設定ってなんでこんなにめんどくさいんだろう。そう思うのって私だけですか。

 昔からですが、自分の人となりを説明しなければいけない場面がすごく嫌いです。クラス替えの度に書かされる自己紹介カード、ひっきりなしに回ってくる当時大流行したプロフ帳、いやいやもう勘弁してくれよと正直思ってました。そして今も全く同じ気持ちです。プロフィールアレルギーです。

 自分の中の何かが反応して「No🙅‍♀️」のサインを出している。それってどういうメカニズムなんでしょうね。別に「なんとなく嫌」「めんどくさい」で置いておいても問題ないことなので、今まで詮索してこなかったわけですが、突然気になり始めました。

 考えてみた結果、私が自分の人となりを説明することを嫌うのは、おそらく自分の理想や信念を身体に彫っている感覚になるからです。入れ墨です。一度彫っちゃうと消せない。一生その言葉を背負って生きていかなければいけない、みたいな。

 私は小さい頃からスポーツが好きで、昔から自己紹介のときは決まって「スポーツが得意です」と言っていました。いくつかある自分の特徴の中から私は「スポーツが得意」というプロフィールを選んだわけです。別に普通のことですよね。友達も「あ、この子は運動ができるんだな」くらいに受け取ってそれで終わりです。

 でも問題はそこじゃなくて。自分の口で「スポーツが得意」と言ってしまったこと、そのせいで私の中には「いつもスポーツができる子でいなければいけない」という意識がほとんど無自覚的に生まれてしまったんです。だから、それからというもの、ずっと体育の時間が怖かった。上手くできない姿を見られるのが怖かった。みんなが褒めてくれればくれるほど、どんどん怖くなる。もうそのイメージから外れることはできないなって。

 自分で選んで打ち出したイメージが、他人に共有されて評価されて大きくなって、気づいたらもうその「イメージ通りの自分」を生きることしかできなくなっている。そんな経験ないですか?私の人生ずっとこれの繰り返しです。だから、そろそろ嫌になってきて、その反動で「自分のイメージ」を伝えなきゃいけない場面(プロフィールを書いたり、自己紹介したり)を遠ざけるようになったんだと思います。もうめんどくさい。最初から何も背負わなければ自由に生きていけるんじゃないかって。

 けれど、それは私の見当違いでした。人って自分が意識していなくても、「こうなりたい」とか「こう見られたい」っていう理想のイメージを持っているんですよね。言われなくても、みんな勝手に自分のプロフィールを設定して、多かれ少なかれそのイメージに縛られて生きている。それはきっと、私が私であろうとするからこその不自由なんだと思います。

 みんながどんな想いで自分のプロフィールをつくっているのか、私なんかが想像しきれるわけがないのですが、自分のイメージを伝えることに恐怖を感じて、ものすごくエネルギーを使った人がいるんじゃないかなと、みんなのプロフィールを見ていて感じました。この記事を読んで、え、私もプロフィールアレルギーかもと思った方がいればぜひ教えて下さい🙋‍♀️

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