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テクノロジーを使った介護で両楽を。

■自己紹介と母との関係

初めまして。
2022年12月にヨガの資格RYT200とチェアヨガ指導者資格を取得して、現在細々&コツコツと活動を始めています。
ヨガ講師になろうと思ったのは、数年前に母親の介護をした経験からです。
「人は口から食べられ、歩くことが出来ればほぼほぼ幸せでは」と経験からたどり着いた答えです。そのためには運動も程よくして健康寿命を延ばす事が大事だと思い比較的激しい動きが無いヨガの講師を目指しました。

元々はとても元気で活発で勝気でと私とは反対の性格を持つ母でした。
父は私が高校生の時に亡くなり、それからは母が働きながら養ってくれました。父の父、私からは祖父・母からは義理の父となりますが、祖父も一緒に同居していました。この二人は性格が似ているせいか、よく衝突して一升瓶が宙を舞ったこともありました。私も母とは折り合いが悪く、長い事恨みといいますか…。好きでいてほしいの裏返しでもあったと思いますが、話すことさえあまりありませんでした。心の中で「こんな母親にはなりたくない」と自分が子供を持つ事に恐怖があり、結局子供を作る事を積極的にはせず、子供なしのまま現在50代です。今は子供がかわいくて仕方ないです。
途中、母との間ですったもんだあり、半ば勘当状態にあり、音信不通の数年間がありました。(手紙はごくたまに届くが、内容が怖いもしくは文字が独特で読解不可能)
そんな数年間を過ごし、突然電話が鳴り「おかあさんが救急車ではこばれました」の連絡。本当にこういう事は突然おこるのですね…。100歳まで余裕で生きると勝手に思っていたので、現実とは思えませんでした。
病院につくと意識もなく、一人でどんな暮らしをしていたのか、その時に
目の前に映像が出てきました。兄がいましたが、どちらもあまり家には寄り付かづ、人の目がないなか肺炎が悪化して意識がなくなりました。
奇跡的に後遺症もなく退院しましたが、栄養はチューブから歩くこともしていない。結果、髪は真っ白で足の筋肉をほぼなくなり、痩せていました。
体力も無くなったので、体力がつくまで私の家で一緒に生活する事になりました。あんなにお互い寄り付かなかったのに、不思議とお互いを受け入れ、今までで一番話をし一緒に食事をとりました。
私は母から一度も「ごめんね」と「ありがとう」を言われたことがありませんでした。この時、初めて「ありがとう」といわれ不思議な気持ちでした。

■母と別居、通い介護

同居して欲しいと言われました。同居は嫌ではなかったのですが、実家のある地域が昔から嫌いでどうしてもその場所に住む事は出来ませんでした。私の住む場所であれば承諾するのですが、母はやはり自分の家が良いようでした。高齢者が住み慣れた場所を離れるのはストレスですしね。
結果、平日は仕事をしていたので、週末1日実家へ電車で通うことにしました。久しぶりの実家を見たときは衝撃でした。掃除ができずかなり汚い状態でした。布団も干すことができずたぶんダニとかがたくさんいたと思います。肺炎の原因はハウスダストではないかと想像しました。
これは大変マズイ!と思い怒涛のように掃除を始め、怒られるのを覚悟でいらない物や古い物は万々捨てました。それでも古い家です。床もぷかぷか浮いている所もあり、腐って落ちるのではないか?と心配でした。
ここで、認知症がなくても身体が弱って掃除などは難しくなるのだと、当たり前のことですが実感しました。ごはんも炊いて冷凍して、おかずも日持ちがするものを作って保存して、など思いつく事をせっせっとしていました。
髪も黒くなり、散歩で足腰も強くなって”いくつになっても向上する”事を目の当たりにして、希望も見えました。
どのくらい通いを続けたのかはわかりませんが、その間にもやけどをしたり、駅間違えてやさしい人に助けられたり、病院の付き添いで待ち合わせしてもいなかったり、電話をかけてもぜんぜん出てくれなかったり、ケアマネさんから指示が飛んできたりと、わちゃわちゃしながら生活をしていました。
そんな状態が続いていた時に”腰が痛くて起きられない”と寝たきりになりました。今、思えば精神的に絶望を感じていたのではないかと思います。私に同居を断られたり、自分がどんどん老いていくのを感じたり、家の雨戸がしまったままなのを介護士さんが不審に思い、中に入ると布団が汚れたまま寝ていたそうです。一旦施設に保護され、ケアマネさんから電話があり、仕事を早退して急いで駆けつけました。どこかに怪我や病気があるわけではなさそうだったので、一時的に入れる施設で療養することになりました。汚れた布団を処分している最中にも現実とは思えず、これからどうするべきかなど体はうごかしつつ頭の整理がつかないまま、あれやこれやと考えました。
”大富豪だったら、家建てて快適に一緒にくらせるのに”とお金が無い事の無力さを感じたり、複雑な子供時代を思い返したりと、たくさん考えましたし感じました。

■通い介護で感じたこと

そんな事を繰り返しながら、自分もだんだん疲弊するのを感じてきました。ある日突然、まっすぐ前に転びました。両手は買い物で荷物がいっぱい、ガードする事ができず、ばったりと倒れ周りの人が驚いて”大丈夫?”と駆け寄ってきました。運がいいことに顔を直撃する事はなく、たいした怪我にはなりませんでしたが、自分が一番びっくりしました。倒れる瞬間スローモーションになり、まずいかも…と考えながら倒れる瞬間。”限界がきたかな”と悟りました。
体を動かして出来る事は寝たり食べたりすればある程度回復しますが、精神的なストレス、私の場合はなにより「電話に出ない、どこにいるかわからない、話が通じないと」いったコミュニケーションをとれないことのストレスが大きかったです。
電話に出なければ、また倒れているのでは?や行方不明か?や明日の予定理解しているか?や薬また余っていないか?など数えきれないほど、心配事が頭をいっぱいにしました。
その時に、セコムや見守りなど色々調べて少しでも家に行かない時の不安をなくそうとしましたが、一人暮らしの母には無理だと判断しました。もちろん介護サービスは受けていてヘルパーさんにも来てもらっていましたが、「この人は嫌、他人が家に入るのは嫌、まだ大丈夫」などと勝気が先に立ち、なかなか受け入れてくれませんでした。
せめて電話にでてほしいと思いましたが、耳もどんどん遠くなり(お決まりのテレビ大音量)、目も悪くなり、電話の音が聞こえない、留守電にもしない、しても聞かない等々、最悪家に出向かないと無事なのか、無事じゃないのか?も確かめられない状態でした。人によっては”何かあれば誰かから連絡がくる”と思えるかもしれませんが、何度か人がいない時に倒れて数日そのままの経験があるので、そうポジティブにはなれません。
スマホはもちろん使えませんし携帯電話も充電器にさしっぱなしで寝室にはありませんので、意味がない状態です。
そんな時に”何か電話を知らせてくれる物があればいいのに”とか”今、どこにいるか知らせてくれる物があればいいのに”などと強く思っていました。
そんな生活を続けていた時に「外出自粛」の世界がきました。
もう…、毎日毎日”会いに行くべきか、行かないほうがいいのか?”と悩み続け、母は「大丈夫だから来なさい」といっていました。会いたいのだと思いましたが、肺炎を患った事で胸は弱っているし万が一の事を考えると、怖くていけませんでした。
そろそろワクチンが打てると明るい兆しが出てきた時に、母は一人で自宅で亡くなりました。やはり気が付くまで数日ありました。
そして私や兄が駆け付けたその日にワクチン接種の通知が届きました。

■使えるものは何でも使おう

それから数年たって、テクノロジーを使った介護(介護現場ではなく個人や家族が使える)がどうして普及していないのか?と不思議でした。なんとなく企画書みたいなものはかなり前に作成していて、どこにも発表もせず、保管だけしていました。捨てられなかった理由は何かあるのだと思いますが、どこかに出してそれで何のリアクションもなければ処分しようと決めていました。が、ライトな感じの発表をしてみたところ、少しづつ”もしかして出来るのかも?”という感覚と”明日この世にいないこともある。やり残した事がないよう挑戦してみよう”との思いで今に至っています。
事業化などと大層な事をプロフィールに書きましたが、私が出来なくても発表することで、誰かが気が付いたり、いいと思ってくれたりして楽になる人が増えればいいと思っています。
ただ、そうも思っているのは自分だけかもしれません。でも確実に負担は軽く出来ると思っています。

■体験談やテクノロジーを使った介護への感想

そこで、この文章を読んでくださった方の中で、介護経験がある・なしに関わらず、例えばスマートスピーカーやスマートウォッチ、スマートリモコンなどのテクノロジーを使って介護の負担を減らしている方(使えば減らせるのでは?)と考えている方からのご意見を伺いたいのです。
または、こんな物があれば便利だし、役立つ!と思っている方など、様々なご意見をお聞かせください。
同居・別居・認知症ある、なしなど環境は各家庭で様々だと思います。
また、使うにあたってのハードルもあるのではないかとも思っています。そのような内容でもかまいませんので、何か心に思う事がある方はどうぞよろしくお願い致します。ご意見を参考にさせていただき、少しでも両者(介護する側もされる側も)が楽に自分の生活に少しでも余裕ができる社会作りに貢献していきたいと思っています。

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