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新型コロナウィルス肺炎がくれたもの:名作「夜と霧」を読了できたこと

「夜と霧」の旧版をamazonで注文して読むことが出来たんだよね。

自分が死に至る病に罹患するかもしれないって思ったから。

本気で。

一月前くらいの僕は少し鬱ぎみだった。

カミュの「ペスト」もコロナがくれた贈り物。

長年、読めていなかったんだけど、一気に読むことが出来た。

「夜と霧」「ペスト」の二つは、死ぬまでに読めてよかったって思うほど、とても素晴らしかったよ。

「夜と霧」は名言の宝庫だった。

強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには十分だ。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

「夜と霧」の作者フランクル博士は、ナチスの被害者でありアウシュビッツの被収容者であった。その博士の哲学は、加害者側のハイデガー博士の「存在と時間」に大きく影響されている。フランクル博士の精神科医&心理療法家としてのスタンスは、実存分析と呼ばれているのだ。

ハイデガーの「存在と時間」は未だ読了に至っていない。今は、恩師、木田元先生の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を読んでいるところ。

自分の死を見つめるということ。これは言葉だけでは不可能だった。本物の思想には、自分の死を実際に我が身に引きうける体験が必要なのではないかと思う。それは、病であれ災害であれ、事故、戦争‥など、その契機はことなれども、他人事では済まされない実体験が必要だとコロナに教えてもらった気がする。

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