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幻日 Time

日盛りの草原のただなかで、
1つのミームが形成された。

そのミームは、若く孤独だった。
『救い』という幻日の代わりに、仲間を求めた。

ミームは、
コトバを持たなかった。
ロジックを持たなかった。
レトリックを凝らした音楽だけを持っていた。

その音楽は新たな仲間に『救い』を与えた。
彼らにとって、それは真実めいていた。

結局のところ、彼らが本当に望んでいたことは、
『救い』ではなく、どんな意味的解釈も受け付けない『原罪』を歌いあげることだけだった。

おしまい。

今日、キリスト教の勧誘を受けた。

誘い文句は、
『私たちのサークルに入りませんか?本サークルでは心理学的知見に基づいてあなたの性格を理解し、サークル員の相互理解を深める事を目的としています。コロナ禍で相互理解ができる環境がなくなりましたよね?是非、サークルで交流しませんか?私はクリスチャンで...』といったものだった。

本来なら、コミュニケーションの不足と宗教とは互いに独立した要素だと思うのだけど、聞いている限りその2つのコトバは互いに分かちがたい要素のように聞こえてしまった。

世界的に見ても、神話のモチーフというのはおおよそ『抑圧への抵抗』だと思う(有名どころの宗教の発生は革命の発生と構造的に殆ど同じである場合が多い)。
そういう意味で、コロナ禍という『(心理的)抑圧』は宗教と親和性があるのかも知れない。

それにしても、なぜサイエンスと宗教が結びつくんだろう?歴史を振り返ってみても、布教に科学は必要ないことが証明されているはず。
必要なのは、物語や奇跡の意味づけのほうだと思う。

今日も、scientificな1日を‼️

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