だから私は声を掛けよう
つい先日、大阪のとある商業施設に母と出掛け、レストランの順番待ちをしていた時のことです。
母を背に前方を眺めていたら、ドタンっという音が聞こえました。振り返ると、母が床に倒れ込んでいました。驚くと同時に彼女の顔を覗き込んで呼びかけましたが、意識はあってゆっくりだけど受け応えも出来る様子。ただとてもしんどそうで、立ち上がることは難しそうでした。
その光景を見たお店の方がおしぼりとお水を渡しに来てくれたので、私はその方に救護室の場所を尋ねました。しかし建物内に救護室はないとのこと。出来る対処としては、警備の方を呼んでその方々に救急隊を呼んでもらうというものでした。
不安になってすぐ病院にかかろうとする私と違い、母は出来る限り病院に行かずなんとかしようとする人です。人に迷惑をかけるのが苦手で大丈夫だと言い張ることが多いですが、この時もやはりそうでした。
力無い声で大丈夫だと何度も言うけれど、しんどそうな顔色。体勢も苦しそうだけど、こんな時は下手に動かしていいものかも分からない。救急隊を呼ぶことを勧めてくれる警備の方々。仮に大袈裟だと言われてもちゃんと診てもらう方がいいのではと思いつつ、どうすることが正解なのか分からず戸惑っていました。
そこへ、「医療従事者ですが、大丈夫ですか?」という声とともにひとりの方が現れました。その方に軽く状況を説明すると、脈を診てもいいですかと聞かれたので、お願いしますと答えました。
母の脈を確認した後、娘さんの判断で救急隊を呼んでもらっていいと思いますよと伝えてくれました。その方の言葉をもって、私はやっと警備の方に救急車の手配をお願いすることが出来ました。おかげで少し気持ちが安心して、とてもとても有難くて、ぽろぽろと涙が溢れてきてしまいました。
その後もその方は私と同じように母の側にしゃがんで様子を見て、時々脈をチェックしたり私にも声を掛けてくれたりしながら、救急隊の到着を一緒に待ってくれました。お連れの方も荷物を持って立ったままで一緒に待ってくれていて、休日の時間を申し訳ないなと思いながらも、おふたりが此処を通りかかって声を掛けてくれたことにもの凄く感謝していました。
間もなくして救急隊の方が到着し事情を説明している内に、気付けばそのおふたりの姿は見えなくなっていました。きちんとお礼も言えないままで、お名前も何も分からなくて、ただ、親切にしてもらった・助けてもらったという事実が、私の胸と記憶に残りました。
母のしんどそうな症状は一時的なものだったようで病院に着き程なくして落ち着きましたが、倒れた時に庇った手を骨折していることが分かりました。救急車の中でも痛いと呟いていたので、相当痛かったのだろうと思います。
あの医療従事者の方が私に判断を促してくれていなかったら、骨折しているなんて思いもせずに母の大丈夫を受け入れ、後になってもっと痛みに襲われていたかもしれません。
一通りの検査と治療を終えて落ち着いた頃、私は母に助けてくれたその方のことを伝えました。そんな優しい人がいたんだという事実に、母もまた涙を流していました。
善意でしてくれたことなのだろうと思います。医療従事者の方ということで、ああいった状況は初めてではなかったのかもしれません。それでも私にとっては初めてのことで、しっかりしなきゃと思いながらも不安で判断をつけられず困っていました。だから、あの時声を掛けて助けてもらったことに心から感謝しています。
***
実は一昨年から昨年にかけて、困っているかもしれないと思う人に声を掛ける機会が私自身にも何度かありました。
受診する為に訪れていた病院内で見かけた方の車椅子を押させてもらったり、駅で点字ブロックが分からなくなっていた方を改札口まで案内させてもらったり、認知症で危険な暑さの中道路を歩き続けている方を110番通報させてもらったり。
その時々で、声を掛けるか否か、少なくとも一瞬の迷いがありました。一瞬どころではなく、何度もその状況を確認してやっと声を掛けられたこともあります。
街中で困っている人を見かけた時、困っている人と断定することさえ非常に悩みます。困っていないかもしれないという考えも同時に浮かぶからです。だから困っているかもしれない人に声を掛けることは、私にとっては少なからず勇気の要ることです。
余計なお世話ではないかな、迷惑にならないかな、ちゃんと役に立てるかな、嫌な気持ちにさせないかな、気を遣わせてしまわないかな、、、そんな考えがぐるぐると過ります。それでも目の前にいるその人を見ているだけではいられず、気付けば私は身体を動かして声を掛けていました。
そんな私を見て、善い人に見られたいからそういう行動が出来るの?私なら迷惑かもしれないと思うから絶対にしない。と言ってきた人がいます。どうしてそうするのかなんて考えたこともなかったのでその質問に驚きました。
駆け寄り、声を掛ける。何故そうするのかと問われると、ただ自分がそうしたいからという理由が最もしっくりきます。目の前で困っている人を困っているままに出来ない・したくないという気持ちがあるからです。
それはエゴだと言われれば、そうなのかもしれません。そんな私を見て、優しいねと言う人もいます。そうなのかもしれません。私は、目の前の困っている人を助けられるなら、そんなことはどちらでもいいのではないかと思うのです。
間違ったらどうしよう、迷惑をかけてしまったらどうしようという気持ちは、仕事でもプライベートでも何時でもあります。自分の言動は間違いかもしれない、それによって相手に迷惑がかかるかもしれないことなら尚更慎重になります。
それでも私が声を掛けなかったら。自分が間違うことを恐れて他の誰かが何とかしてくれるのをひたすら待っていたら。もしかすると直ぐに他の人が行動してくれるかもしれないし、そうではないかもしれない。全ては結果論でしかなく、その場で判断・行動が求められるものだと思います。
それなら私は、やはり勇気を出して声を掛けたい。間違えることもあるかもしれないけれど、そんな時はきちんと謝ってそこから学んでいきたい。
自分に見えている相手の状況からあらゆることを憶測してみても、相手が本当に求めていることは聞いてみないと分からないし、相手が私の言動をどう受け取るかも知りえません。それが役に立つのか、迷惑になるのか、正解なのか、間違いなのか、行動してみるまで分からないのです。
それなら、迷惑をかけることよりも、間違うことよりも、目の前の人を助けられないということの方がよっぽど怖いことだなと思います。
私は、私たちを見つけて声を掛けてくれたあの医療従事者の方にとても感謝しています。本当に有難くて、助けられたと感じています。助けてもらった記憶は、いつだってあたたかいです。
直接お礼を伝える機会はもうないかもしれないけれど、恩は返すだけじゃなくて送ることもできるから。今回受け取ったものは、この先どこかで出会う他の誰かへ、送ることができればいいなと思っています。
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