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自分を抑圧しないために


京都でベトナム料理を食べていた。テレビには昼時のワイドショー。右傾化していく欧州政治に対する危機感をコメンテーターらが語っている。


かつてわれわれは混交していくことによって——相互に依存するような関係をわざと創出することによって——平和を実現しようとした。

現代には再び、「総合」から「単一」へ、「混交」から「純血」へという波が押し寄せている。われわれはこの波をはね返さなければならない。平和のために。



「総合」から「単一」へ。「混交」から「純血」へ。という流れはなにも国際問題ばかりではなく、国内政治や、もっとミクロな面(私たちの暮らしに直結する部分)にも影響を及ぼしている。

私たちは物事を細分化し、カテゴライズすることによって物事を整理し、認識しやすくしようとするが、「物事を細分化」することによって生じる負の側面については、あまり公にはされない。

というよりも、多くの場合、見えない振りを(あるいは、あえて見ないように)されている。そのほうがなにかと都合がいいからだろう。


「物事を細分化」する眼は自身にも向けられる。だから、自分は自身を整理し、認識しやすい存在にするために、自分自身に一貫性をもたせようとする。


自分自身に一貫性をもたせる、ということは、自分のこれまでの人生を直線的な歴史の形状かたちに編纂するということだ。そして、他者の歴史の直線と並行にして見較べるということだ。そう、較べてしまうことが問題なのだ。


他者と自分とを比較することによって生じる意識——優位性を保とうとする意識や相手を打ち負かそうとする意識、自分は永久に敗北し続ける運命になるのだという「無敵」の意識——こそが他者への害意を育み、自身を傷つける動機になり得るだろう。

ゆえに、私たちは、自分という存在を直線的な歴史の形状に押しこめてはいけない。自身をこれ以上に抑圧しないために、私たちは自分のことを、どのように認識するべきだろうか。そのことについて、必死に考え抜いてみよう。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。