結局、いじめって何だったんだろうか

ぽぽみうむです。
中学時代(ちょこっとだけ小学生時代)のいじめについて色々記載していました。今日は、結局、いじめって何だったのか、という総括をしていきたいと思います。

まず、いじめを受けてよかったかどうか。
これは、間違いなく「ノー」です。しかし、いじめを避けられたかどうか、と言われたら、避けられなかったと思います。
いじめによって失ったものはたくさんあります。地元も、友達も、思い出も、自信も失いました。髪の毛の色素も。
でも、いじめのお陰で、ある程度状況を読んで対応できるようになりました。挑戦しようか迷った時、「リハビリ」と思うことで、自分自身を鼓舞できました。その結果、素敵な友人に出会えたり、新たな自分を見つけられたりしました。

次に、いじめっ子に対してどう思っているか。
まず、いじめっ子とは少し違いますが、小学校時代に公開処刑してきた、隣のクラスの担任。
「反面教師になってくれてありがとう」
そして、自分の担任。
「なんかしろや」
数少ない、SOSを出した相手なのに、裏切られた気持ちでした。あなたのお陰で、「教師とは、保身する生き物なのか、所詮、児童は赤の他人だもんな」と思いました。

そして、いじめっ子に対して。
私が「先生に君の悪事をしゃべっちゃってごめん」の一言でも発せたらよかったのに、それができなかったので、確かに私が悪いかもしれません。というか、まあ、私が悪いな。
でも、元はと言えばあなたが違反をしていたからじゃね?とも思います。
とりあえず、意思表示が「集団で寄ってたかって侮辱する」っていうのは、幼稚すぎますね。

あと、その他のクラスメイト。
めちゃくちゃタチ悪い。特に、私が直接危害与えていないのに一緒になって悪口やら嫌がらせやらしてきた奴。名前も家も覚えています。燃やしたいくらい嫌いです。
本当に、ずっと仲良かったのにサーーって離れて行った女子達。結局同窓会では、普通に喋れたけど、
(そもそも同窓会行くんかいって話ですけど)
わたしは内心怯えていました。

そんなわけで、今振り返ることが出来ている、という事は、わたしはいじめを乗り越えたのか?と思われるかもしれません。
これもまた、絶対に「ノー」でございます。

就活で過去の振り返りをするときに、涙が止まりませんでした。それでも、私の価値観は、中学の出来事が割と大半を占めているので、止むを得ずそこに触れようとすると、
「いじめの話は就活でタブー、マイナスイメージ」みたいな風に、キャリアセンターで言われました。

周りの人が、「学生時代は部活で〜」とか、色々楽しそうな思い出を振り返っていて、それを聞いたりするたびに、胸が張り裂けそうになります。
わたしはいじめによって、「どうせ無理」が口癖になりました。「功績」を上げることを拒絶しました。何も頑張ることが出来なくなりました。

「いじめを言い訳にするな」って今なら言えます。でも、そんな声かけをしてくれる人は当時の私には誰もいなかったです。

「今」があるのは「過去」があるからです。一生過去の経験は変えられないのです。
大学に入ったおかげで、自分の自尊心が極端に低い事に気付いたし、自分の対人能力の低さに気付きました。
少しずつ、現状は変わってきています。

でも、わたしはまだまだ自分の価値観や性格に関して、「これはいじめの影響が少なからずあるのかな」とふと考えてしまうことや、「こんな性格だからいじめられたんだ」と落ち込む時があります。

中学の思い出話をしている人を見て羨ましいと思います。心が痛みます。みんなが当たり前に持っている、思い出が、私は真っ黒に塗りつぶされているのです。一生影が付き纏うのです。

例えば、就活の挫折経験で、「部活で勝利を目指したけど無理でした」って定番だと思うのですが、わたしはそもそも頑張る気力がありませんでした。注目されたら死ねと言われる。頑張ったらキモいと言われる。そういう事しか考えられなかったのです。挫折するまで頑張りたいと思えるメンタルがありませんでした。

幼い頃から頑張る習慣がある人は大学でも輝いています。その人は、そもそも、いじめに立ち向かえる精神力を持っていたからなのかもしれません。私がいじめを受けていなかったところできっと頑張っていなかった可能性の方が高いです。

でも、わたしはいじめられなかった人生を送ったことがないので、分からないです。
本当に心の底からの挫折は、幼稚園とか小学校低学年で止まっています。それ以降、「頑張っても意味ない」のメンタルで生きてきました。

そのしわ寄せが今もあって、わたしは人より頑張る体力がないと感じています。このリハビリも今しています。

わたしにまとわりつくいじめの本質に気付くまでに9年かかりました。研究室の仲間のおかげで気付くことと、立ち向かう決心がつきました。中には一生気付かずに命を断つ人、人生を諦める人が沢山います。

いじめっていうのは、牛乳に墨汁を入れるみたいなもんだと思います。
その牛乳は、飲みたくないですよね。一生その墨汁の入った牛乳を飲む覚悟がある奴だけがいじめたらいいです。でも他人の人生に責任なんて持てるわけないでしょう。いじめをするしか手段がない奴にそのような覚悟が持てるわけないので。

「墨汁を入れるな」と言えなかった私の牛乳はどんどん黒に近い色になっていきました。少しずつ、遠心分離とか、膜浸透圧法とかで取り除こうとしている最中ですが、きっと時間がかかると思います。現に、9年前の仕打ち、鮮明に覚えているので。

そんなわけで、時間がかかると思いますが、少しずつ、一生かけて、前を向いて歩いていきます。

明日以降は、「いじめっ子へ」「傍観者へ」そして、「いじめられっ子へ」という感じでお手紙風に書きたいと考えています。

そして、最後に、なぜ私がいじめの事を取り上げたかの話や、一番書きたかった事を書いて終わりたいなぁ、と思います。

まあ、私の戦いに終わりはありませんけどね。


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