花火は消えた、やらぬ後悔が残った

ぽぽみうむです。
人間、だれしも「起こるかもしれない」ことにわくわくすると思います。
例えば、宝くじが当たるかも、とか。流れ星が見えるかも、とか。
私は、「どうせ起こらない」と考えてしまうので、この類のことに関心がありません。

そんな考えを抱きながら迎えた、6月1日。
「全国で一斉に花火が打ちあがる」
というネットニュースを観ました。
とってもびっくりしました。なんて粋な計らいでしょう。
どうせ次の日も仕事ですし、見える保証なんてどこにもない。そう思って特に関心を寄せていませんでした。

しかし。
私の住んでいる街に、花火が上がったというニュースが流れました。
びっくりしました。
そのことを知ったのは、家族からのLINEでした。

「花火、見えた?うちの県では、あなたが住んでいる市で上がったみたい」
「私の近所で上がると思って待っていたけど、上がらなかった。みんなで、あなたは花火を見たのかなあって話してたよ」

そんな内容のLINEを見た瞬間、猛烈に後悔の気持ちに襲われました。

全国に「私の街から見えるかなあ」と、期待している人がたくさんいたことに気付かされました。
私は、見えるチャンスがある場所にいたのに、「どうせ見えない」と最初から諦めてしまいました。その結果、多くの人が待ち望んでいた機会を無駄にしたのです。

もちろん、「待っていたけど見えなかった」だったら諦めがつきます。
でも、挑戦すらしなかったことに後悔が残りました。
周りの人の期待を裏切ってしまった気持ちになりました。

よく、人間は、「やった後悔よりやらぬ後悔」なんて言います。
私の場合、人生を振り返ってみて、「こんなこと、しなければよかった」といまだに引きずることがたくさんあります。
だから、この言葉にいまいち信ぴょう性を感じられませんでした。

しかし、最近になって、この言葉の解釈を間違えていたのかな、と思うようになりました。
今までは、「興味を持ったことは、何でも経験してみなければ後悔する」という意味だと解釈していました。しかし、実際は「何かを全力でやりきらなければ後悔する」という意味だと気付きました。
私は、今まで、何事も、「やった」のうちに入らない程度にしか挑戦していなかったのだと、猛烈に後悔しています。

花火が打ちあがる奇跡に懸ける、というのは、「極力見晴らしのいい場所で待機する」ということしか最大限の努力ができません。
この場合、「やった」に到達することは比較的容易です。それを、私はしなかったのです。

もし、6月1日に、広場で待機していたら、それで花火を見ることができなければ、ある程度の諦めはついたと思います。
「見ようと思ったけど、私の家の近所では見れなかったみたい」
そう、LINEの返信をして、悲しさを共有できたはずです。

最初から諦めてしまった結果、家族の淡い期待や願いを裏切った私は、今になって諦めがつかず、後悔の念に押しつぶされています。
そして、この想いにつられ、今までの人生に対する後悔も数珠繋ぎのように湧いてきました。

もっと水泳の習い事を頑張っていたら。
もっとピアノの練習をしていたら。
もっと部活で上を目指して努力していたら。
もっと受験勉強に打ち込んでいたら。
もっと卒業研究に真面目に取り組んでいたら。

どんな人生になっていただろうか。
もっと偏差値の高い大学にいただろうか。
もっと優良と言われる企業に勤めていただろうか。
もっと人から尊敬される人間になれただろうか。
もっと自分を好きになれていただろうか。

今からでも遅くないでしょうか。
こんな想いを断ち切るには。
受験だってなんだって、「どうせ私にはできっこない」と諦めていました。そして何も得られなかった自分を、周りの期待を裏切ってきた自分をどんどん嫌いになりました。

諦めることは簡単です。
挑戦する際に生じる、「敵わなかったら、叶わなかったら」という恐怖に近い感情に支配される可能性が無くなるからです。

花火の場合、花火大会に行けば、確実に花火を見ることができます。
でも、上がるか、見えるか確実ではない花火の方が、余計に綺麗に見える気がしてなりません。

何度も何度も、理想を描いては諦めて後悔してきました。
理想を叶える人を見ては悔しくて涙を流しました。
私にとって6月1日の花火は、そんな自分の終息を願う花火でした。

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