ぽぽっち

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最近の記事

共依存の両親②

父に会わなくなって15年は経つ。 下の子を出産した頃、両親は離婚裁判をしていた。 私が小学6年生の時に母方の実家で同居を始めたので、出て行くのは父だった。 裁判が終わるまで居座り続けた父。 家庭内別居をしていたから、下の子を連れて里帰りをしていた時でも、父に子どもを会わせなかった。 なので、下の子の名前も顔も知らない父。 今思い出すと、そうか、私が妊娠中に揉めていたのかと唖然とする。 父は離婚調停、離婚裁判にも一度と出廷せず無視し続けた。 最終的にどうなって終わりを迎えたの

    • 父のこと②

      父は自分より劣っている、弱いと思う人にはモラハラ全開だった。 仕事場ではどうだったかわからないが、定年までは勤めあげた。 でも、仕事場でもどうだったのだろうか。 近所に同じ会社の人が偶然に1人いたけれど、なんだか父とは距離を置いていたから、会社でも変人扱いされていたのか。 私は小学2年生の時に母方の実家近くに引越し、祖父の病気が発覚してからは母の祖父母と同居をした。 私たちが小学生の間は母方の親戚が集まり、いとこみんなで祖父母の家に泊まったりもした。 親戚付き合いが普通にあ

      • 父のこと

        父は決して自分のことはほとんど話さなかった。 自分の小さな頃のことや家族のこと、どんな学生時代を過ごしたとか、仕事のことも。 いつからギャンブルにはまったのかも。 私の知っている父のほとんどは、父のモラハラな面である。 モラハラというフィルター越しでしか今の私は父を見れない。 私が母から聞いた話では、父の母親は再婚していて、私の知っている父方の祖父とは血が繋がっていないこと、おそらく妹、弟とも。 けれども、祖父と父との関係はどちらかと言えば良好だったのだと思う。 父は義父の

        • 覚えている景色③

          日常のちょっとしたモラハラ言動は、あまりにも多すぎて忘れてしまっているのだけれども、あまりにもショックなエピソードは、何十年経っても覚えている。 まだ母方の実家で同居していない前の家でのこと。 おそらく両親のお金を渡す、渡さないといった攻防は私や妹がいないところで多々あったのだと思う。 私が小学5年生の頃だっただろうか。 朝ご飯も食べて、制服にも着替えて、あともう少ししたら家を出ようとしていた。 父も出勤しようと家を出ようとした時だった。 パチンコに依存していた父は、多分前

        共依存の両親②

          やっと出て行った父

          母の一方的な想いから私は勝手に〈お父さんチーム〉の一員だったが、決して喜ばしいことでは当然なかった。 母は自分を大切に扱ってくれない夫、姑、そして姑に似た私をそうやって一括りにすることで、自分の立ち位置を明確にしたかったのかとも思う。 何も反論できない小さな私は〈お父さんチーム〉と言われて心の中で「え〜嫌やわ、なんか。」と思ってはいたけれど、「なんでそんなこと言うの?言われた方の気持ち考えてみて。」なんて反論もできなかった。 小さすぎて、母の言葉の意図を理解もできていなか

          やっと出て行った父

          お父さんチームとお母さんチーム

          モラハラな父の存在が強烈すぎて、この家族の機能不全の原因は父だと思っていた。 けれども母も同様にこの家族の歪さを助長させていたと気づいたのは、私が大人になってからだった。 私が結婚をし母と同じく娘2人を授かり育てていくなかで、母が私に投げかけてきた言葉の違和感を感じずにはいられなかった。 それが「◯◯ちゃん(私)はお父さんチーム、◯◯ちゃん(妹)は、お母さんチーム。」と事あるごとに言っていた事だった。 私は父方の祖母によく似ていた。祖母の子どもの頃に小さな私はそっくりだ

          お父さんチームとお母さんチーム

          覚えている景色②

          基本的には家族だけに理不尽を振りまいていた父だけれども、時々、社会の場でも父のモラハラ気質は顔をのぞかしていた。 父と私と妹との3人で出かけた小さな遊園地。 母が一緒にいた記憶がないので、珍しく3人で出かけたのだろう。 私が5歳、妹が3歳ぐらいだったろうか。 どういういきさつで3人で出かけたのか分からないが、母がいなかったいうことも、他者の前で父が理性で自分の苛立ちを抑えられなかった要因の一つでもあったのだと思う。 小さな遊園地は、食事を摂る所も限られていた。 お弁当を持

          覚えている景色②

          共依存の両親

          両親はいわゆる共依存関係にあったと思う。 自分の気質に耐えられるような女性を父は選んだはずだ。 そうでなければ、とっくの昔に離婚となっているはずだから。 けれどもそうはならなかった。 理不尽をぶつけられても、母はなぜか父と一緒にいた。 何度か離婚が持ち上がり、親戚も巻き込んだ時もあったけれど、それでも離婚には至らなかった。 自立心も、私たち子どもを1人で育てる自信も経済力も全て持ち合わせてなかった。 モラハラを繰り返されても、パチンコに毎日通う父でも、母は結婚という関係を自

          共依存の両親

          食卓の風景

          モラハラな父親のエピソードは、たくさんある。 はっきりと覚えているもの、うっすら覚えているもの、思い出したくないものetc 父の地雷がどこにあるかわからなくて、いつもビクビクしていた。 ご飯を食べていても、急に機嫌が悪くなる。 テーブルを叩く。 お箸やお茶碗が飛んでくる。 もう食べる気分なんて全く起こらない。 おかずもご飯も一気に味がなくなる。 いかにこの場から離れるか、それだけを考えて空気を読んで行動する。 そんなことで?というような理由。 あまりにも理不尽な理由過ぎて

          覚えている景色①

          自分の家族がおかしいと気づいたのはいつの頃からだっただろうか? 自分の家族のかたちしか実際は経験していないから特異さは分からず、おかしいと実感できたのは、大学生の頃になるのか‥ 大人になって、両親の生育歴を推察することができるようになって、どうしてそんな大人になってしまったのかは理解はできるが、納得をすることは全くできない。 自分を変えることはできたと思うから。 彼らはやはり、結局は自分のことしか考えていなかったのだと思う。 モラハラを母や子どもに繰り返し、パチンコに依存

          覚えている景色①

          自分で自分を癒すしかない

          いわゆる私は毒親に育てられた。 敢えてこういう表現をしてみた。 というか、今の私はそう言いたい。 もちろん私より過酷な環境で育った人はたくさんいるだろう。 障がい福祉に携わってきたり、高齢者虐待、児童虐待にも少しだけ関わってきた私にとっては、もっと理不尽な家庭環境で育ち、生きづらさを抱えてきている人たちをたくさん見てきた。 そんな彼らと比べたら、私なんてまだ幸せな方なんだろう。 (比べることはナンセンスなのはここではおいておいて。) でもやはり、生育環境から育まれてしまっ

          自分で自分を癒すしかない