旧吉岡家住宅
古民家ファンのみなさま。
お立ち寄り頂けたら幸いです。
毎年、春と秋に、東大和市の国登録有形文化財である『旧吉岡家住宅』が公開されます(すみません、もう終わっています)
文化財ボランティアは『おうちガイド』を行いますが、
私はまだ解説ができるほど精通していません。
背後でおどおどニコニコしているだけの人がいたらpopoです。
先日、公開にさきがけて、現地で勉強会がありました。
と言っても、メンバーのみなさんは知識の泉。ほとんどがpopoへの集中講座でした。
主屋
「旧吉岡家住宅」は明治中期に建てられた養蚕農家の住居です。
昭和19年(1944)に、画家の吉岡堅二が疎開のために移り住み、平成2年に亡くなるまで、創作活動を行っていました。
吉岡堅二氏が購入後、母屋を自宅兼アトリエに増改築した姿です。
当初は茅葺屋根で、今より2メートルほど高く、煙抜きが2つありました。
もしも茅葺きのままだったら、東大和市の財政では保存できなかっただろうから、吉岡さんのおかげ、とメンバー曰く。
屋根をメンテナンスするための葺き替えには、安くとも2,3千万、ちょっと大きな家だと5千万かかるそうです。
「下屋」は写真で見るオレンジ色の部分です。
ここも吉岡堅二氏が増築しました。
間取りがまったく同じですのでWebから拝借しました。
農家の間取りは「田」の字型に規格されており「四間取り型式」と呼ばれています。
しかし吉岡堅二氏はこのようにして使っていました。
かつて農家では馬を大変大事にしていたので、同じ屋根の下に住んでいました。
玄関の引き戸の高さは209センチと、馬が通れるサイズにしていたそうです。
扉が厚くて重いので、人が通るときは潜戸を使っていました。
土間では煮炊きや縄打ちをしていました。
日本家屋は木造ですから、火を使うにも、水を使うにも、木床より土床のほうが安全だったと考えられます。
私「縄打ちってなんですか?」
Sさん「縄打ち知らないの? 縄をとんとん叩くのよ」
私「脱穀のようなものですか?」
Sさん「脱穀が終わった麦。叩いてしなやかにして、蓑を編んだり、草鞋を編んだりしたの」
あ!
♪おとうは 土間で わらうち仕事
って、そういうことだったんですね!
しかし画家の生活には、馬も縄打ちも必要ありませんから、土間と厩をアトリエに改造したのですね。
アトリエ
日本画の絵の具の棚の部分を拡大。
吉岡堅二氏が使っていた当時のまま保存しています。
吉岡堅二氏がカッパドキアに行ったときの絵。
このロバさんの首の装飾品、
右側の壁にかかっています。
その他、壁にぶらさがっているのは工具です。
氏は絵を描くだけでなく、家具を作ったり、電化製品を修理するのが得意でした。
たたき
玄関を入ってすぐの部分は、吉岡堅二氏自らがイタリアで買い付けた、イタリア産の白い大理石を敷いて、「たたき」にしました。
1枚が70✕76センチで、16枚あります。
ここへテーブルと椅子を置き、お客さんが来たときは応接間にしていたそうです。
玄関でお客さんをもてなすって、失礼な気が…?
江戸時代まで、「たたき」「あがりかまち」「縁側」は、靴を脱いであがるほどでもない、ちょっと寄りましたとか、ちょっと用事があってとか、ちょっとしたコミュニケーションの場として活用されていたそうです。
座敷と客間
「あがりかまち」は、この部分。
たしかに2,3人は座れるくらい広いです。
座敷には囲炉裏があり、大黒柱や差鴨居(さしがもい)は煤で真っ黒です。
欄間は組子によって装飾されています。
釘を使わずに、ぴったりサイズに細い板を並べて作る伝統工芸です。
座敷と客間の間の扉(板戸)の取っ手は、絵で装飾されています。
金色の蝶々は金の象嵌、へちまは裏側から打って立体的になっており、青っぽいつぶつぶはコバルトかと考えられています。
食事をする所
縁側
下屋をささえている下屋桁です。
長さ15メートルと7メートルの丸太を、1本の釘も使わず支えています。
捻棹鯱(ひねりさおしゃち)というきわめて難しい宮大工の技なんだとか。
その組み方の模型を、文化財ボランティアのFさんが作りました。
ぱかっとはめて、ぐるっとひねると、びくともしないんです。
(幼稚園児並の表現力)
縁側から見た庭。
2000字を超えてしまったので、庭のご紹介はまた次の機会に。
最後までお読み頂きありがとうございました。