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羽村市郷土博物館(1)

所在地:東京都羽村市羽741
アクセス:JR羽村駅西口徒歩20分
訪問日:2024年1月27日

館内の写真撮影は、家で楽しむだけなら自由です。
SNSなどの掲載する場合は申請が必要ですが、住所と名前を書くだけで、手続きは簡単でした。


縄文時代

羽村市と言えば河岸段丘
羽村市域には、4か所の縄文時代中期の集落遺跡がありますが、いずれも河岸段丘の縁辺にあります。
縄文人は、ハケ(断崖)から出る湧水を飲料水とし、背後に広がる広大な武蔵野台地の森林から、自然の恵みを受けて生活していました。

筆者撮影

狩猟の対象動物としては、シカ・イノシシ、野ウサギ・タヌキ・テン・アナグマなどがいたと推測されます。しかし、動物の捕獲は容易ではないため、主食にするにはハードルが高かったでしょう。
縄文人の日常生活を支えたのは、木の実や根茎類などの植物。春には山菜、秋にはアケビ・ヤマブドウ・クリ・クルミ・ドングリ・トチなどを食していました。
どんぐりはそのままでは食べることができません。アク抜きができるようになったのは、土器ができて、煮炊きができるようになったからです。

筆者撮影 

あれ?
犬がいます。
縄文時代に犬を飼っていたのでしょうか。

調べてみると、縄文時代の遺跡から、犬の骨や犬のための副葬品が発掘され、人間と同じように埋葬されていたのではないかと考えられているそうです。
愛知県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、市原市西広貝塚で発見された犬は、前歯や牙が抜け落ちていることから、縄文人は、犬を猟犬として大事にしていたのだろうということがわかっています。

下顎骨の咬合面 前臼歯の一部を生前に失っていたことがわかる
出典:「縄文人はなぜイヌを埋葬したか」


弥生時代

羽村市域からは、弥生時代の遺跡は発見されていません。
古墳時代の終わりころに、人の住んだ痕跡が現れます。


中世

羽村市域は青梅市・奥多摩町の一部とともに、杣保(そまのほ)と呼ばれ、三田氏の支配下にありました。
三田氏は、勝沼城を拠城として、鎌倉時代の末期から後北条氏に陥落されるまで、約260年間にわたって杣保を支配した豪族です。


江戸時代

江戸時代の羽村市域は、羽村・五ノ神村・川崎村の3村に分かれていました。
主に畑作を行っていましたが、下畑・下々畑・切畑(焼畑)といった低級な土地でした。
焼畑とは、草や雑木を焼いた跡を農地にし、地力が衰えると放置して、地力が戻った十数年後に再び焼く、そんな畑のことです。

生産性の低い土地で収穫量を上げるには、多量の肥料が必要でした。芝草・むぎから(麦の穂を落としたあとの茎)などを腐らせた自給肥料と、糠・灰などを購入する金肥(きんぴ)がありました。金肥は農業維持になくてはならないものでしたが、肥料代の支払いは大変だったようです。

基本的に年貢は米納でしたが、米が育たない畑地では金納が課せれました。村びとたちが食べるものは雑穀、芋、大根などで、小麦・蕎麦は売って年貢や肥料代に当てていました。

羽村に限らず、江戸近辺の農村では、苦しい生活をカバーするために、畑仕事の合間に農間余業(のうまよぎょう)をするのが普通でした。
余業と言っても生活を維持するためには必須です。

男性は駄賃日傭取り(ひようとり)と呼ばれる雑用、薪の切り出し、馬による荷物の運搬など。女性は蚕を育てて機織りをしました。
特に紬・青梅縞※1・黒八丈※2などがよく売れたそうです。

※1 青梅縞(青梅市指定有形民俗文化財)
絹を経糸に、綿を緯糸として織った縞柄の布地。
江戸時代、「奢侈禁止令」により、庶民が絹を着ることを禁じられていた中で、一見綿に見えますが、実は絹も入っているこの布地は、お上への反発心を矜持する江戸っ子の心意気だったのでしょう。またつやのない渋めの色合いが、江戸好みに合っていたようです。
『甲子夜話』には、鼠小僧が捕縛され市中引き回しになったとき、青梅の着物を着ていた、という記述があるそうです。
『甲子夜話』は平戸藩を隠居した松浦静山が書いた随筆です。

復元した手織の青梅縞
出典:歌舞伎いろは


※2 黒八丈
八丈島の特産品、黄八丈の一種。
ヤシャブシの実を煮出して染料にし、泥に含まれる鉄分で媒染します。


養蚕用具 

筆者撮影


繭の重さの違いで雌雄を分ける自動判別機

筆者撮影

蚕を育てるカイコカッゴ。
棚の部分はサシダンと言う。

筆者撮影

蚕の一生。
脱皮しながら大きくなります。
脱皮の回数ごとに、1齢、2齢、3齢、4齢、と数え、5齢が成虫です。
5齢になると、食欲がなくなり、身体が透き通ったようになり、繭を作り始める合図なので、「回転蔟(かいてんまぶし)」に入れます。

筆者撮影

回転蔟は上の写真のこれです。
このマス目の中に蚕を入れると、中で繭を作るそうです。


繭を作っている様子を他のwebサイトからお借りました。

朝日新聞デジタル 2021年6月15日


近代


安政6年(1859)の横浜開港以後、生糸・蚕卵・繭は主要輸出品になり、輸出額の8割を占め、1世紀にわたって日本の近代化に貢献しました。

明治35年(1902)の記録に「西多摩村の農業は重きを養蚕業におき、農業生産高の7割強は繭、生糸の生産からである。田畑の多くは桑園化し、日常食料品さえも他村から買い求めるような状況である」と書かれています。

養蚕・機織りは戦後まで続き、朝鮮特需のときには、がちゃんと織れば万が儲かることから「ガチャマン景気」と呼ばれたりしました。


カバー写真:羽村市郷土博物館公式サイト


<参考資料>

『羽村市史』羽村市編さん委員会 平成31年(2019)

市原市埋蔵文化財調査センター「イヌと縄文人の絆」 鶴岡英一著https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook1.htm

トイ人 「縄文人はなぜイヌを埋葬したか」佐藤孝雄(慶應義塾大学文学部教授)2018年
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%92%E5%9F%8B%E8%91%AC%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B

歌舞伎公式総合サイト『歌舞伎美人』「かぶきいろは」
https://www.kabuki-bito.jp/special/more/jreast-trip/post-trip-23/3/

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASP6G72DBP69TIPE02B.html

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