『遠野物語』
民俗学って何?
『遠野物語』の序文にある、
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ
は有名なワンフレーズです。
ここに、柳田國男の、民俗学の視点が現れているように思います。
「これを語りて」の「これ」は遠野の伝承のことです。
座敷わらし、河童、臨死体験、神隠し、山姥、オシラサマ、動物…。
民俗学は、妖怪好きから入った、という人が多いそうです。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ
妖怪の話を聞かせて、怖がらせてやれ。
そんな単純な意味ではないでしょう。
平地人は誰?
平地人に相対するのは山地人?
としたら山地人は誰?
誰をして誰を戦慄たらしめるのか、がわかれば、
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ
の意味がわかる気がします。
仮説1
このころ日本は人類学に目覚め(海外の影響で)、日本人のルーツに関する大論争がありました。
以前、『吉見百穴』の記事でも触れましたが、先住民はアイヌ人かコロボックルか、学術的な論争があったのです。
柳田國男も北海道へ行っていますが、先住民調査するためだったかもしれません。
とすると、座敷わらしや河童は、柳田國男にとってコロボックルのような先住民であったのかも。
柳田國男は高校・大学時代にハインリヒ・ハイネの『流刑の神々』に衝撃を受けていました。先住民が追いやられて、精霊になる話です。
日本の先住民が東北の山奥に追いやられ、座敷わらしや河童に姿を変えていた、という精霊物語を、柳田國男が描いていたとしてもおかしくありません。
妖怪こそ日本人の祖先だ、日本人たちよ、驚いただろう?
仮説2
このワンフレーズに続くのは、
この書のごときは陳勝呉広のみ
です。
「陳勝・呉広の乱」は、始皇帝の死後翌年、秦の支配に対して農民がおこした反乱ですね。
首謀者だった陳勝と呉広は鎮圧されたものの、それに誘発された農民たちが挙兵し、秦を滅亡させるに至ります。
農民が為政者に勝利した快事件(農民の立場から)でした。
日本古来の歴史学は、権力者や為政者が語り手です。
庶民の歴史は度外視されてきました。
これからは庶民が歴史を語るのだ!
そんな柳田國男の意気込みを感じるのです。
とすれば、山地人は庶民で、平地人は為政者や権力者だとも考えられます。
これからは民が歴史を語るのだ、為政者たちよ、首を洗って待っておれ。
仮説3
山地人は日本人で、平地人は外国人、と捉えるのは飛躍がすぎるかしら?
明治維新による西洋化が進む中にあって、日本=野蛮、西洋=文化社会、という考えが日本人に劣等感を抱かせていました。
日本人としてのアイデンティティを再確認しよう。
日本にもこれだけの深い歴史が根付いている。
日本人よ、外国人を戦慄せしめよ。
以上のことをふまえて、柳田國男の民俗学の視点は、
1)日本人のルーツや日本文化を見直そう。
2)為政者や権力者ではなく庶民側から歴史を語ろう。
といった叫びではなかったかと思うのです。
こうしたところから端を発し、民俗学への考えは熟成していきます。
柳田國男は、郷土は姿を変えていく有機体だと捉えていました。
個々の郷土がいかにして今日を今日としてなし得たか。そこにどんな法則や方向性があったのか。
それらを研究することで、今後、村人たちが幸福に暮らすにはどうしたらいいかの方法を見つけることができる。
民俗学は庶民の幸福論なのですよ
と、柳田國男は思い至ったのかもしれません。
長いお話におつきあいありがとうございました。
ご意見、ご指摘がございましたら、コメント欄でよろしくお願いいたします。
<カバー写真>
nippon.comホームページ
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900101/
<参考資料>
『遠野物語 山の人生』柳田國男 岩波文庫 1976年
『民族調査ハンドブック』 上野和男他編 吉川弘文館 1987年
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