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大学で後輩だった女優さんに小説を依頼したら、とんでもない作品が送られてきた話

「幼い頃から雨の日が好きだった。家も、学校も、海も、山も、田んぼも、道路も、私も、あの人も、街じゅう等しく濡れていく。雨の等しさが好きだった。このまま何もかもが同じように満たされて、新しい海ができればいいと思った。」

これは今まさに才能を大きく開花させようとしているとある小説家が、デビュー作の書き出しとして綴った文章だ。

題名は海辺の金魚
今年6月に発売された連作短編集である。

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(『海辺の金魚』/ポプラ社刊)

小説家の名前は小川紗良(おがわ・さら)。
1996年生まれ。つい先日25歳になったばかりという若さだ。

小川さんは役者として朝の連続テレビ小説「まんぷく」をはじめ、ドラマ「アライブ がん専門医のカルテ」、映画「ビューティフルドリーマー」などに出演してきた若手女優。

と同時に、学生時代から中・短編映画を制作し、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭やぴあフィルムフェスティバルなどに入選。この夏公開予定の初長編映画監督作「海辺の金魚」は韓国・全州映画祭やイタリア・ウーディネ極東映画祭への正式出品も決まっているなど、映画監督としても成果を残し続けている。

小説『海辺の金魚』はそんな若くしてマルチに活躍している彼女の、小説家としてのデビュー作となる。

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(小川紗良さん近影)

少し経緯について触れると、小川さんとこの小説の宣伝担当(私)が大学時代の先輩後輩であったことが元々のデビューのきっかけである。
出版社に就職し文芸書の宣伝担当として日々編集部と話をする中で、「小説が書けそうな人、います」と提案する機会があった。小川さんが学生時代に撮っていた映像作品に、文学的なセンス・視点を漠然と感じていたからだった。
その後、6月25日に公開を控える映画「海辺の金魚」の情報を受けて改めて正式に声を掛け、映画の内容を膨らませる形で(とはいえ結果的にはそれぞれが全く別の魅力を持つ作品となったが)書かれたのが本作となる。

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(映画「海辺の金魚」ポスター/こちらも素晴らしい作品です)

ちなみに先輩後輩とは言っても、映画サークル周辺に知り合いが多かったり、たまたま同じ映像制作授業を履修していたりした私が、一方的にひとつ下の彼女に注目していたというだけで、当時特に交流があったわけではなかった。
彼女は在学時から役者としても映画監督としても実績を残していたし、授業では是枝裕和監督ら講師陣からの容赦ないつっこみにも怯むことなく、吸収できるものはすべて貪欲に取り入れようと食らいついていた。
肩書とは全く別のところで――熱心な姿勢とその積み重ねで、周囲から一目置かれていた。私だけではなく、少しでも近い場所にいた者であれば誰もが視線を向けていたはずだ。

そして結論から言うと、小川さんはあの小さな教室やキャンパスの中だけではなく、今後小説家としても、多くの読者と評価を獲得していくだろうと思う。
要するに『海辺の金魚』は、デビュー作とは到底思えないほど素晴らしい小説なのだ。

依頼した立場として当然期待はしていたが、小説というのは書いた経験もない人がいきなり書けるような生易しいものではないし、そもそも形になるかどうか、書き切れるかどうかすら見えない。実際前向きに依頼を受けてくださった小川さん自身も最初は相当戸惑っていたと思う。

だからこそ本当にびっくりした。
「少し書いてみました」と送られてきた一番初めの時点から、既に小説としての体を成していたばかりか、掛け値なしに傑作だと胸を張れる原稿だった。あえて失礼な言い方をすれば想定外のサプライズだったと言っていいかもしれない。
編集担当を務める文芸部編集長や営業担当者と裏で「これはとんでもないぞ」と声を揃えたことをよく覚えている。

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(カバー、帯)

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(カバーを外した表紙)

では一体『海辺の金魚』は何がそんなに素晴らしいのか。面白いのか。
なるべく簡潔に絞りつつ、以下3つを切り口としてその凄さを記しておく。宣伝担当者としての売り文句でもあるが、それよりも今感じたことを記しておかないといつか後悔すると思った。いち読者としての、独断と偏見に満ちた単なる感想である。

【ポイント】
➀ カメラワーク
② 小道具(モチーフ)の扱い
③ 筆致とテーマ の掛け算

【『海辺の金魚』あらすじ】
児童養護施設で暮らす花は、夏を迎えて18歳になった。翌春には施設を出るきまりだが、将来への夢や希望が何ひとつない。花が8歳のとき、母親が無差別殺人の罪で逮捕・勾留されて以来、彼女の心には何物も入り込む余地がなくなっていたのだった。ある日、ボロボロのぬいぐるみを抱えた女の子・晴海が施設にやってくる。必死になってぬいぐるみを抱きしめている晴海の姿に、花はかつての自分を重ね合わせていた……。
表題作「海辺の金魚」の他、「みっちゃんはね、」「星に願いを」「花びらとツバメ」の4篇から成る連作短編集。


➀ カメラワーク
小説の話でいきなりカメラワークって…と怪訝に思われるかもしれないが、小川さんの文章には明確に「カメラ」が存在している。そう思わされる。まずは初めにも引用した書き出しをもう一度読んでほしい。

「幼い頃から雨の日が好きだった。家も、学校も、海も、山も、田んぼも、道路も、私も、あの人も、街じゅう等しく濡れていく。雨の等しさが好きだった。このまま何もかもが同じように満たされて、新しい海ができればいいと思った。」

これが見事なのは、単に文章として美しいということだけではない。
A:雨の降る街の情景(外的描写)
B:主人公・花の現在地(内的描写)

この2つが絶妙に溶けあっているところにその非凡さがある。
以下、この文章から読み取れる情報をざっくり挙げてみよう。

A:外的描写
=雨が降っていること、その雫に濡れていく景色、田舎であること、おそらく学生であること、キーワード「海」のイメージの喚起
B:内的描写
=物事を俯瞰するような達観した様子、雨が好きだという(ごく一般的とは言い難い)感性、「平等なこと」への憧れに似た気持ち、すべて水の底に沈んでも構わないという少々投げやりな態度、「あの人」の存在

この短いセンテンスの中だけでも、これだけの情報量がある。
A・Bどちらも丁寧に散りばめられ、文章が織り上げられていることが分かるだろう。

これはつまり、小説における「カメラ」をどこにどう向けるかという問題である。
頭に映像を思い浮かべながら書く人もそうでない人も、小説というのは文字だけの媒体でありながら(だからこそ)、常に「何を書くか=何を書かないか」を選ばなければならない。「映り込み」は基本的に存在せず、映そうと思ったもののみが文面に現れる。

小説の地の文(台詞以外の部分)というのは大まかに二種類あり、
起きた出来事や見ている光景を切り取った外側の描写(A)と、登場人物の心情など内側の描写(B)ということになるが、これがどちらか一方に偏り過ぎると読み物として停滞してしまう。
「思ったこと」だけでも「起きたこと」だけでもなく、その両方をカメラに収めるということ。
そのカット(描写)の次にどのカットを持ってくればドラマが際立つか考えること。

「思う」と「起こる」の間にある程度の因果関係が存在していて、自然と「思う⇒起こる⇒思う⇒起こる⇒……(繰り返し)」と重なりながら連鎖していく小説というのは読者が没入しやすい。没入しやすいということは「映像が浮かびやすい」ということ。これがカメラワークだ。
『海辺の金魚』は終始、心情と情景が過不足なく行ったり来たりを繰り返し「相互に反応し合いながら」ストーリーが進んでいく。

分かりやすい具体例を挙げる。
主人公・花の18歳の誕生日会と、同じ日に新たに児童養護施設に入所してきた少女・晴海の歓迎会とが合同で行われる序盤の夕食シーンの一幕。

「窓の外に目をやると、いつの間にか雨は止み、庭の木々に滴る雨粒が月光に照らされていた。風が吹くとその雨粒がきらりと落ちて、庭中の木々が涙を流しているようだった。私と晴海の記念日を祝うその涙は、喜びにも悲しみにも思えた。」(15ページより)

花はこの夏の日に18歳になったので、来春には長らく育った施設を出ていかなければならない。間もなく出ていく者(花)とやってきた者(晴海)それぞれの心情と、雨上がりの情景が見事に重ねて描写されている。

小川さんの書く文章はこの「何を書くか」という取捨選択がとても巧みだ。取捨選択というのはつまり「カット割り」であり、考えてみると映画ではより意識的に行われていることである。
そのカットに人物をどう入れるか、アップにするのかロングショットにするのか、どんなインサートを挟むのか……映画監督として画面上・脚本上で行ってきたことが、小説でもうまく転用されているように思う。

ちなみに最初に降っていた「雨」は、表題作である第一章「海辺の金魚」ラストで再び大きな意味を持って反復される。この引き際もまた圧巻である。


② 小道具(モチーフ)の扱い
「とあるモチーフにキャラクター性を語らせる」というのも創作における大きなテクニックのひとつだが、使い方によって読者への説得力が変わってくる。たとえ読者が実際には経験していなくても「わかる」と思わせること。小川さんは作中随所で見事にそれをやってのけている。

「➀カメラワーク」で述べた内容も含んだ良い例がある。冒頭直後の7ページの描写。

「「星の子の家」と書かれた重い門扉を押す。木でできた水色のボロ看板が、雨に濡れ藍色に変色していた。取っ手の赤茶けた錆が手について、血のようなにおいがする。思えば、この門扉は私がここへ来てからただの一度も手入れがされていない。今日で私は十八になるのだから、かれこれ十年ということになる。レールも滑りが悪くなり、初めて押した日よりもずいぶん重みが増した。日常というのは気づかないくらいの速さで、しかし着実に、木屑や錆や滑りの悪さを積み重ねていくから怖い。」(7ページ)

ここでは花が暮らす施設の「門扉」がモチーフとして焦点を当てられている。ただ「門扉が古い」という情報を使って、花が長くここに住んでいることをさりげなく説明しつつ、そこから現在に至るまで積み重ねてきた「日常」を想起させることで花の現実・未来に対する不安な気持ちをスムーズに引き出している。
さらに言えば、扉を押す重たい感覚や取っ手の錆の匂い、褪せた色味まで描写し、読者の五感(触覚、嗅覚、視覚)の刺激までを果たしているのだから、この小説がいかに細部まで繊細に書かれているかがよく読み取れる描写ではないだろうか。

もうひとつユニークな例を。「ほうれん草」を使って花の性格と置かれた環境を示唆した場面。

「かつて、私がこの家で最も年少だった頃、年上のお兄ちゃん・お姉ちゃんたちがほうれん草の根元ばかり私にやるので、私はほうれん草というのはピンク色の食べ物だと思っていた。ある時、小学校の課題で私だけがピンク色のほうれん草を描いたので、私は大恥をかいて泣いて帰った。あれから月日が経ち、今ではもうほうれん草が緑色であることも、多くの家では根元を捨ててしまうことも知っている。それでも私は生涯にわたり、ほうれん草を根元まで食べるのだろう。きっと、そうせずにはいられない。」(13ページより)

決していいものとは言えないはずの思い出に対して、相反する気持ちを持ちながらも、この先もずっと大事に抱えていくのであろう花の繊細さと心優しさ。そう思わせるほどの環境への敬意と、そう思わせてしまうある種の残酷さがほのかに垣間見える。
初めての小説で、モチーフ選びにオリジナリティを持たせながらも共感のポイントを外すことなく、こういった暗喩までを果たせるというのは小川さんの書き手としての力量が高いことの大きな裏付けとなっている。


③ 筆致とテーマの掛け算
小川さんの一番の特長は、その筆致にあると思う。「筆致」とはつまり、文章の持つ雰囲気ということだ。リズムや言葉選び、リアリティ、温度感などが複合的に合わさって立ちのぼる肌触り。人によって軽妙だったり重々しかったり、やさしかったり面白かったり印象は様々だ。
抽象的な話になるが、小川さんの文章はクセが少なくどこか淡々とした感じがあるにも関わらず、他にはない個性もしっかりとあって、読んだ際の印象は瑞々しくあたたかい。
この筆致が、決して軽くないテーマを扱った『海辺の金魚』にとって、黄金比とも思えるバランスでとてもよくマッチしている。

「熟れたキュウリを砕いては運び砕いては運ぶ虫たちを見ながら、私は不意にこの小さな虫たちの平穏を奪いたくてたまらない衝動に駆られた。(中略)私は目を盗んで農薬の瓶を持ち去ると、虫たちのもとへと踵を返した。味わったことのない高揚感が、幼い私の心を支配した。この小さな虫たちの運命を、たった今私の右手が握っている。可哀想だとか苦しそうだなんて思う隙もなく、私はただ純粋な好奇心で満たされた小さな神様と化していた。」(40ページより)

これは花が幼い頃、まだ施設に入る前の母親とのやりとりを思い返す描写の一部である。

ここで幼い頃の花は「虫の行列を壊したくなる」でも「虫たちの命を奪ってしまいたくなる」でもなく、「平穏を奪いたく」なるのである。
つまり花にとって「神様」というのは「平穏を奪おうとする存在」であり、まさに今の自分があの時の虫の立場にいるように感じているというのが(前後を読むと一層)よく分かる。

子どもならではの無垢な狂気が、少し距離を置いた文章・客観的な言い回しと柔らかい言葉選びによってその純粋さを際立たせている。小川さんは「平穏」や「神様」という“丸い”ワードを使って「狂気」を語ることで、この場面をよりコントラストの効いた美しい場面に仕立てているのだ。

また、この描写でも分かる通り、子どもたちに対するやわらかな眼差しというのも本作の特長のひとつだ。
映画「海辺の金魚」撮影に際して、関連資料を読み込み、実際に施設を訪問し、子どもたちと交流してきた経験が小説にも活かされているという。

『海辺の金魚』には、夏秋冬春とそれぞれ季節を変える全4篇の作品が収録されている。全篇一貫して施設を出ていく花の視点で描かれているが、花とは別に、各章で少しずつ違う子どもたちにスポットライトが当てられている。

様々な事情から児童養護施設で暮らす子どもたちに一貫して「カメラ」を向け続ける。考え、悩み惑い、はしゃぐ姿を温かく描く。そこにあるのは主義主張ではなく問いかけである。自らの主義主張を登場人物に語らせるよりも、問いかけとして創作に落とし込む方がより難しいはずだが、この小説ではそれが為されている。

「晴海も、私も、いい子でも、悪い子でも、私たちがどんな子だとしても、丸ごと愛おしいと思えた。たとえ私たちが海を知らない金魚でも、二人でならどこまでも、泳いでいけるような気がした。」(75ページより)
「私たちだって本当は、美しい白鳥なのかもしれない。名前も知らない遠い国へ飛んでいって、この世のものとは思えないような素晴らしい景色が見られるのかもしれない。しかしそこに至るまでに、一体どれほどの勇気と力がいるだろう。」(124ページより)
「いつまでも「かわいそう」の範疇で許されて、そうすることでしか私たちは生きていけないのだろうか。私たちだって、あの家に生まれていれば。そんなことは考えても無駄だと知っていても、そうせずにはいられなかった。ベランダから見下ろす私たちの姿は、一体どれほど「かわいそう」だったのだろう。」(181ページより)

小川さんのあたたかくも鋭い筆致で時折ハッとさせられながらも、『海辺の金魚』は社会派ではなくあくまで花というひとりの少女のごく個人的な物語であるという点において、書き手の覚悟が見える傑作だと言える。
書きたいものを書き切れる。
小説家に何より必要なエンジンを、小川さんは25歳にしてすでに持っている。

以上、「①カメラワーク」「②小道具(モチーフ)の扱い」「③筆致とテーマの掛け算」3つの切り口から小説『海辺の金魚』の素晴らしさ、小川さんの書き手としての能力の高さについて触れた。しかしこれらはまだほんの一部で、片鱗に過ぎない。

いずれにせよ、今後文芸界を賑わせていくことは間違いないだろうと思う。


最後に。
本作は構成面の工夫として、4篇各話に一作ずつアンデルセン童話(絵本)がキーアイテムとして登場するのも見所のひとつである。

・夏:「海辺の金魚」⇒人魚姫
・秋:「みっちゃんはね、」⇒みにくいアヒルの子
・冬:「星に願いを」⇒マッチ売りの少女
・春:「花びらとツバメ」⇒親指姫

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(目次ページ)

各章でこれらの絵本はどう活用されていくのだろうか。
本作の終盤に以下の一文がある。

「「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
絵本を締めくくるありきたりなその一文を、声に出して読んでみた。現実には、いつまでも続く幸せなんてあり得ないと知っている。始まりがあれば終わりがあって、多かれ少なかれ人はその悲しみを抱えて生きていく。だからこそ多くのおとぎ話は、いつまでも続く幸せで締めくくられているのかもしれない。」(196ページより)

さて、ではこの『海辺の金魚』という小説はどう締めくくられているのだろうか。
実はこの幕引きにこそ、小説家・小川紗良の底知れなさが表れている。ぜひその目で確かめていただきたい。


私事ながら、人事異動により宣伝部としての文芸書担当はこの作品が最後となった。節目に素晴らしい作品に携わることができて幸運だった。
私がこの記事で最も伝えたかったこと。「持つべきものは才気煥発な後輩である」ということだ。


ポプラ社 水野 廉


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