ショートショート「記憶香」

「プルースト効果ですか?」

「はい、あなたの不眠症を解消するには、過去のトラウマが起因しているようです。一度その記憶を鮮明に思い出すことで不眠は寛解されると思われます。」

精神科医は私に向かってそう言った。

 プルースト効果とは、特定のにおいが、それに結びつく記憶や感情を呼び起こす現象のことを言うらしい。近年では記憶障害のある人間に対して嗅覚的刺激を与えることで記憶を思い出せる治療法が確立していると言われている。

 なぜ、私が精神科医を訪れたかと言うと、最近、不眠症に悩まされていた。一度は寝付くのだが夢を見て起きてしまう。しかもその夢の内容を全く思い出せない。12時に床に着いたのに2時ごろには目を覚ましてしまうのだ。たまりかねた私は、精神科を受診したのだ。しかし、私を苦しめている悪夢が匂いなんかで思い出せるのだろうか。

 施術当日、施術室に入ると一つのベッドと大型の装置が置いてあった。看護師から施術室のベッドに横たわるように言われ横たわった。しばらくすると医師が入ってきてこう言った。
「今から脳波を計測しながらさまざまな香りを嗅がせていきます。普段見る夢に近い物を探るために入眠状態に近づける必要があります。ですので、目を瞑ってリラックスしてください」
私は、その言葉に従い目を瞑った。普段から不眠気味の私はすぐに意識が遠のいて行った。薄れる意識の中で薄らと良い匂いがしているのを感じていた。

 言い知れない恐怖心で目を覚ました。すると、すぐに医師が入ってきてこう言った。
「施術は終わりました。こちらに来てください」
私は、まだ状況がよく飲み込めていなかった。

 医師は語り始めた。
「あなたの記憶に起因している香りは、水辺の香り、太陽の香り、森林の香りです。水辺の香りは淡水だと推測できます。恐らく幼少期に川の近くで起きた出来事が原因と思われます。心当たりがあるものはありますか?」

川の近くと言われ私は考えたが、私は東京で生まれ育った。近くにはあまり自然も無く近くにある自然と言えば街にある垣根くらいだ。私は自分の過去を辿った。しかし、自分の記憶を辿っても何も出てこない。そこで、両親に話を聞くために実家へ向かった。

 実家にて、母から意外なことを聞いた。
 「あなたがまだ小さい頃、よくお父さんの実家で遊んだじゃない!覚えていない?」その話を聞いて私は急に思い出した。父の実家はかなりの田舎にある。小さい頃はお盆によく遊びに行っていたのだ。私がハッとしていると父から意外な言葉を聞いた。
「そうだな、あの事件以降行ってないもんな」
「あの事件?」
「そう、確かお前と親父が川に遊びに行ってお前一人で帰って来たんだよな。親父はその時からずっと、行方不明なんだよ」

 私は、その事を聞いてかなり驚いた。なぜ、そんな大事な事を忘れていたのだろうか。この事件をきっかけに祖母は一緒に暮らし始めた事、父の実家にはそれ以降行っていない事を急に思い出した。これは、すぐにでも父の田舎へ向かうしかない。私は、近くの3連休に父の田舎へ向かうことにした。

 その夜、私はまた悪夢にうなされて目を覚ました。時計を見ると4時であった。普段よりも、2時間近く多く眠れていた。症状は完全によくはなっていないが少しずつ改善していた。

 次の週末、私は父の実家にいた。父の実家はもうすでに廃墟になっていた。父の実家におもむろに入ってみた。独特の木材の香りが立ち込めていた。すると、急に強烈なフラッシュバックに襲われた。当時、祖父と川に向かっていた。今までに全く記憶になかったその映像が鮮明に流れ込んでくる。その記憶を誘われるように私は歩き出した。家の裏側にある庭から通じる細い山道を通ると小さな崖がありそこを通り抜けると川に通じていた。強烈な川の香り、太陽の香りを感じ深呼吸をした。また、フラッシュバックに襲われた。

 そのフラッシュバックの中で、私は祖父の忠告を無視して小さな崖から手の届く木に触れようとしていた。その時、私はバランスを崩して落ちかけた。それを、祖父は全力で助けてくれた。しかし、その代わりに祖父は崖の下へ落ちていった。私がずっと記憶の奥底に封印していたその映像が鮮明に恐怖とともに蘇った。私は納得して、崖の下に通じる道を探した。

 祖父が落ちたであろう、場所に行くと大きなくすのきがあった。くすのきにふれるとふわっとくすのきの香りがしてきた。また、フラッシュバックが来た。今度は今までとは違った。今までの恐怖は全くなく祖父の優しかった記憶が私の頭と心に満たされていった。祖父は私を恨んでいなかったんだ、そう私は感じ取った。

 その後、大きなくすのきの下を掘り返したところ、白骨死体が見つかった。読者の想像の通り私の祖父のものである。両親と私は祖父の遺体を祖母の眠る墓地へ埋葬してあげることにした。その日の帰り道、父にこの事を話していると父は言った。「きっとあの人のことだ、お前に立派に育ったあの木をお前に見せたかったんだろ」父は、遠くを見ながら言った。
私は、その父の言葉に異様なまでに腑に落ちた。




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