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詩形と発想――短歌の短さについて

長さと余韻

俳句、短歌、詩、小説の一番の違いは「長さ」です。

俳句は17文字ですね。短歌は31文字です。詩は色々ありますが、ざっと20行×15文字として300文字と考えます。小説も30000文字としておきましょう(原稿用紙75枚分です)。

ごくごく大雑把に、短歌の長さを1としたとき、俳句は0.5、詩は10、小説は1000になります。つまり、小説は短歌の1000倍ほどの文字数を重ねることができます。

短歌を長さ〝だけ〟から考えることには問題があります。しかし、短歌が長さを限定されていることの意味をしっかりと理解しなければいけません。

文字数の長短が内容の広がりや感動の大きさを決めないことは、短歌に親しんでいれば自然と実感されることです。しかし、文字数は描写の量を決定します。

噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし/小島なお

この歌に直接描かれているのは「噴水の光」「性愛を知らない主体」の二つだけです。これだけの描写をもとにして、次のような解釈に広がっていきます。

噴水の水しぶきの光のように若々しい私は、まだ性愛を知らず純粋だ。または、噴水の水しぶきの光のまぶしさとは違って、まだ性愛を知らない私は未熟だ。歌にはどちらの意味も込められているでしょう。

歌に描かれているものはわずかですが、歌から感じられるものには広がりがあります。前者を描写、後者を余韻と呼んでおきます。

短歌は短いために多くのことを描写することができません。だから余韻に頼り、余韻を活用する必要があります。


長さと発想

一つの発想は一つの箱に閉じ込められます。小説が一つの発想を膨らませることで生まれるとすれば、短歌は一つの発想がそのまま31文字に固められます。

つまり、歌人が小説と同じだけの長さ(量)を用意するためには、1000個の発想が必要だということです。

あらゆる発想、思いつき、インスピレーションを短歌に閉じ込めたところで、一冊にまとめるには到底足りません。歌人は発想の不足に苦しみます。内からの発想に頼っていては短歌を作りつづけることができないからです。

歌人は歌人でいるために、発想を外から持ってくる必要があります。題詠、いちごつみ、写生、吟行の存在意義はここにあります。また、生活を記録する短歌、無内容としての短歌も内からの発想から離れるものです。

おそらく、短歌の57577という形式にも同様の効果があるのでしょう。5音の言葉を探す、7音の言葉を探すという作業は、内からではなく外からのものです。

これらは短歌への批判ではありません。短歌という詩形がおのずからこのような作歌態度を生み出すということです。短歌がどこか大喜利的であり、ゲーム的であり、多くの人に親しまれ、短歌ブームが巻き起こる理由の一端はここにあります。

最後に、一つの発想から多くの歌をつくる方法として連作があります。筆者は歌人がもっと連作という方法に自覚的であればいいなと思っています。一首として成立しながらも一連として連続し、長さを獲得した短歌はとても強いです。

ちなみに、短歌の魅力として短さによる生々しさがある、という話はここでしています。よければお読みください。

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