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春のたべもの短歌会 結果発表

春のたべもの短歌会の結果を発表いたします。大会の概要はこちらをご覧ください。


結果発表

【春のたべもの大賞】
息子にも青春がいつか来るのだろうキッチンの床でたけのこを剥く
川合真生

特別賞
バスク語とチーズケーキを分け合って孤立のさみしさを聴いてやる
青蒼紺碧

【春のたべもの連作大賞】
   透過率
春キャベツざくざく切って花畑みたい四月のコールスローは
心臓のあたりにいちご パフェグラス越しの呼吸はひどく正しい
散ることは枯れないことと気がついて花見酒みるみる透きとおる
早月くら

特別賞
   「ばっけ」って呼ぶ
ばあちゃんに聞いて作ってみたという母から持たされるばっけ味噌
県外のひとなら「蕗のとう」と呼ぶことは知ってて「ばっけ」って呼ぶ
ばっけだと言っても通じないひとと迎えてしまう三度目の春
高田月光


選評

〇川合真生さんの歌〇

息子にも青春がいつか来るのだろうキッチンの床でたけのこを剥く

川合真生

ぽっぷこーんじぇる評

上の句が感情、下の句が実景で、それぞれ「青春」と「たけのこ」という強いイメージを喚起する語が置かれています。そして、この二つの語は絶妙に響きあっています。すぐに竹になってしまう筍、瑞々しく儚い青春、筍のえぐみ、青春の傷、一番おいしい時期……。
まずは明るい歌として読めます。幼い息子に青春がくるのはまだまだ先です。親はキッチンの床という暗い場所でたけのこの皮を剥きます。これからアク抜きをし、子どもでも食べられるように調理してふるまうのです。爽やかで瑞々しい歌です。
さて、ほかの読みはできないでしょうか。寿司村さんが書いてくださっているように、息子を「青春を逃してしまったいい年の大人」として読むことができそうです。そうすると、キッチンの床が一層どんよりとして、母親の懸命な姿が際立ってきます。
また、姿煮さんの読みにあるように、「たけのこを剥く」を性的なそれとして読むことができます。さらに読みを進めれば、「息子」までを隠語としてとらえることで、親そのものが登場しない歌としても読めてしまいます。
これだけの読みを喚起する力が、「青春」と「筍」には、そしてこの歌にはあります。
本当に素晴らしい歌だと思います。

寿司村マイク評

まずは川合さん、大賞おめでとうございます。
この歌は選考会で、三人ともに違う読み取りをしていました。ですので、討議後ではなく選考会に送る前、今振り返れば極端ではあった私の一番最初の評を載せて他のふたりと読み比べていただけたらと思います。

児童が見たがっているのに応えるために床で母が作業しているのかとも思いましたが、シンプルに広いスペースが欲しかったのかと。そして実は息子はそれなりの年齢の男子のような気がしました。
不登校もしくは学校を辞めた子が、春をきっかけに再びチャレンジして自分のできるペースで動き始める。同級生はとっくに青春を謳歌しているけれど、あんたにもそれは必ず来るよ、と信じているような。そんな母のこころを感じました。初見でさみしい、でもそこからのスタートの歌として伝わったのが、私自身不思議です。

(追記)選考会で他のふたりの読みを聞いて考えを変えていましたしツイッターアカウントを見たところ息子さんは小学一年生とのこと(入学おめでとうございます)でしたが、それにしても改めて大賞にふさわしい素敵な歌でした。

姿煮評

実は、今回、春たべ会三人が揃って点をつけた短歌はありませんでした。この大賞歌は、何を隠そう私が点を入れていません。

二句、三句、四句と字余りが続いて詰まりすぎてしまう気がして、音読したときに外してしまったのでした。

意味的には、たけのこを成長の早さの比喩として、まだ幼い息子もぐんぐん大きくなって、いつの間にか青春を迎えるのだろうと、母親として実感して寂しく思っている歌かなと思って読んでいて、意図としては好きでした。個人的に選べなかったのはとにかく音の部分でした。最終的に大賞に推したのは、他のメンバーとの話し合いのなかで、「性的な比喩とも読めるのではないか」という指摘に納得がいったからでした。作者の意図からは離れるような気もしますが、たけのこを男性器の比喩とすれば、キッチンに座り込んでたけのこを剥く母が、自室に座りこんで男性器を剥く青春入口の男の子の姿と重なりました。そういう読みの幅が出ることは大切だと思いました。

春のたべもの短歌会ですから、やっぱり大賞には春らしい歌を選びたい。芽生えの春を感じるたけのこと、これから青春を迎えるだろう息子の組み合わせが気持ちよく思いました。爽やかなだけではない幅のある表現も、春のしっとりとした雨の日を思わせて、それも踏まえれば大賞として文句無しと思います。

たけのこは、きちんと処理しなければえぐみがあって食べられない、すこし手間のかかる食材です。でも、きちんと処理すればこの上ない春の味覚となる。そして、美味しい時期が非常に限られている。そういった食材としての特性が、子育ての姿と重なる、おいしい春のたべものでした。


〇青蒼紺碧さんの歌〇

バスク語とチーズケーキを分け合って孤立のさみしさを聴いてやる

青蒼紺碧

姿煮評

もう暗誦してしまっている歌です。「バスク語とチーズケーキ」を並べているので、一読、コンビニで買えるバスク風チーズケーキのことを想像します。分け合うにはすこし小さいように思います。実際に分け合っているのはただのチーズケーキとしか言っていないのですが、そういう、文字通りの解釈の伏流にノイズのように現れるバスチーが面白いなあと思いました。

バスク語は、ヨーロッパの孤立言語。Wikipediaによれば、二〇〇六年時点で六六万五八〇〇人の話者がいますが、その全てがフランス語かスペイン語とのバイリンガルです。言語を意志疎通の道具とするならば、もしかするといますぐになくなってもほとんど困らない言語かもしれません。現地では生活言語として生き生きと使われているようですが。

バスク語は孤立しています。誰とも容易には分かり合えないという孤立です。わたしたちはそれぞれ、互いの言葉を擦り合わせていくことで、なんとか分かり合えた気になろうと努力します。話者たちの孤独感ではなく、ヨーロッパの言語地図に屹立するバスク語そのものの寂しさに寄り添おうとする。本当には分かり合えないのに、分かり合うための道具として存在せざるをえない言語そのものの寂しさ。擬人化されたバスク語をあたかも孤立の象徴のように感じさせると思いました。言葉を交わして表面的には分かり合えたような気になれたとしても、それに大した意味はないとするなら、寂しさの捌け口として話を聴いてやりながら、ただチーズケーキを一緒につついてあげる。言葉が通じなくても出来る簡単な、それでいていちばん大切な寄り添いかたを示しているようにも思います。

余談ですが、バスク語が生活のなかでどう使われているのかを調べていて、分かりやすかったのがこちらのルポでした。
バスク語のはなし
文法の解説もしていて、言語学者のブログかと思ったのですが、新村芳人先生という、宮崎大学獣医学科でゲノムなどを専門にされている方のようです。天才か(宮崎大学獣医学科って、歌壇賞を取られた久永草太さんが所属されてるところですね)。
大賞に出来なかった理由ははっきりしていて、「チーズケーキって別に春のたべものじゃなくない??」という疑問が拭えなかったのでした。作者の意図が何か隠されているのでしょうか。


〇早月くらさんの歌〇

透過率
春キャベツざくざく切って花畑みたい四月のコールスローは
心臓のあたりにいちご パフェグラス越しの呼吸はひどく正しい
散ることは枯れないことと気がついて花見酒みるみる透きとおる

早月くら

ぽっぷこーんじぇる評

三首連作という形式はあまりありません。みなさんがどのような歌をつくるのかとても楽しみにしていました。
まず、すべての歌で異なるたべものが登場して、それらがすべて美味しそうです。ぽっぷこーん心がくすぐられます。
連作には歌同士に何らかの繋がりが求められます。「透過率」の歌の内容は連続しておらず、物語のような連作ではなさそうです。
一首目はやさしく連作のはじまりを告げてくれます。二首目は「正し」く呼吸する相手が目の前にいるのでしょう。相手のひどく正しい呼吸は、「心臓のあたりにいちご」とも相まって緊張感があります。
ここで気づくのは「透過率」との関わりです。心臓といちごを重ねる発想、「パフェグラス越し」に見える相手の姿など、いわば歌の背景として「透過率」が関わっています。
「透過率」は三首目では決定的な効果を生んでいます。主体は春の王様たる桜を見ることで「散ることは枯れないこと」という気づきを得ます。桜は木を染め、野を染め、川を染め、決して老いた姿を見せません。その気づきは主体の中で「花見酒」をさらに透明にします。酒を幻視したのでしょうか、あるいは毒気が抜かれたように感じたのかもしれません。様々な想像を駆り立てます。
連作のつながりは「透過率」についてでした。読み返すと、一首目で「コールスロー」を混ぜているサラダボールは透明かもしれません。二首目では半分ほどが透明でしょうか。そして、三首目に至って「透過率」は最大になります。
一首ごとの完成度も高く、とても技巧的な連作だと感じました。

姿煮評

一首ごとの完成度、『透過率』のタイトルでまとまったときに現れる文脈、味覚と視覚と感情の春らしさ。どの面で見ても、文句無しでした。

一首目。コールスローとしたところが上手い。春キャベツのうす緑の野に咲く、黄色いコーンや、ピンクのハムや、白いマヨネーズの色とりどりの花畑を想像できます。全体に淡い色合いに感じて、コールスローは春の食べ物だな、と思わされました。春の始まりの穏やかな歌でしょうか。

二首目。一首としては「正しい」について春たべ会メンバーで議論を呼んだ歌でした。相手の正しさを感じるとき、自分の正しくなさに苦しくなります。主体の呼吸は乱れているのでしょう。パフェが減っていくとグラスは少しずつ透明になっていく。パフェと共になくなっていくふたりの時間。心臓の位置にある苺を、食べてしまえば終わってしまうのではないか。春まっただなかの苦しさを感じる歌です。

三首目。上の句の気付きが良い。散るってことは枯れてないってことなんですねと、だからまだまだこれからなんですねと言って貰えているような気になりました。花見酒の酒器を片手に、心が解放された清々しさがあります。春の終わりの希望を感じる歌です。

題として掲げた透過率を軸に、想像の余地を大きく残しながら、春らしいみっつの景色を紙芝居のように思い浮かべました。三首連作という珍しい指定に過不足ない三首だと思います。

寿司村マイク評

早月さん、春のたべもの連作大賞の受賞おめでとうございます。 他の方々への歌評では、私は筆名を見ないままで選んで見ないままで下書きし始めましたが、早月さんは一番最後に決まりましたので作者がわかった状態で書きます。 とはいえ、今回に私が早月さんの作品を深く読みこむことができたとはとても言えず、「みる/みるの跨りが好きです」などのコメントをしながらぽぷじぇるさん姿煮さんの読みについていくのが精一杯でした。 ガラスボウル、パフェグラス、水(酒)と透明度を増しながらドラマチックに進む作品。連作部門にふさわしい、堂々たる受賞作です。


〇高田月光さんの歌〇

「ばっけ」って呼ぶ
ばあちゃんに聞いて作ってみたという母から持たされるばっけ味噌
県外のひとなら「蕗のとう」と呼ぶことは知ってて「ばっけ」って呼ぶ
ばっけだと言っても通じないひとと迎えてしまう三度目の春

高田月光

ぽっぷこーんじぇる評

とても、とても魅力的な連作です。「ばっけ」は宮城県の方言で、ふきのとうのことを指します。それを刻んで味噌と混ぜたのが「ばっけ味噌」で、これが郷土料理になっています。
一首目の舞台は宮城の実家です。主体は上京に際して母から「ばっけ味噌」を受け取ります。「ばあちゃんに聞いて作ってみた」というのが絶妙です。おそらく主体が子どものとき、祖母がつくったばっけ味噌を喜んで食べていたのでしょう。でも郷土料理の伝統は薄れてきていて、「母」もほとんど作ることはない。家を出る主体を思ってわざわざ作ってくれたのです。
二首目の舞台は東京でしょう。周りのみんなは「ばっけ」という方言を知らないけれど、あえて「ばっけ」と言い続ける。母の思いを継ぐような力強い歌です。
三首目も舞台は変わりませんが、二首目から三年もの月日が経っています。主体はなぜ「ばっけだと言っても通じないひと」と同棲しているのでしょうか。相手はずっと東京に暮らしていて、私が春になったら数度口にするような「ばっけ」など覚える気すらないのかもしれません。あるいは、そもそも主体が「ばっけ」という言葉を使わなくなったのかもしれません。時間の隔たりが残酷です。
批評的なテーマを内包しながら、非常に長い物語をたった三首で表現しています。ストーリーを詠む連作の可能性を強く感じさせる歌でした。

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