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「ゼロ年代の短歌100選」10選

『現代詩手帖』2010年6月号に「短詩型新時代」という特集がある。対談も面白いが、ここでは黒瀬珂瀾編「ゼロ年代の短歌100選」に触れたい。

「ゼロ年代の短歌100選」では2000-2010年に発表された短歌から黒瀬珂瀾氏が100首を選んでいる。世代を問わず斎藤史から塚本邦雄、穂村弘から五島諭までの歌が載っており、現代短歌の〝広さ〟を知るには格好のアンソロジーだと思う。

ここでは独断で10首選び、とても短い評を付した。筆者の短歌観をいま一言でいえば、〈世界の不思議さに遭遇する歌〉が好きだ。ではよろしくお願いします。


ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ/生沼義郎

「死を見届ける予感」など、なにか理由がなければ生まれるはずがない。その理由が分からないこと。この浮遊感が一首の眼目だと思う。そういえば、「ペリカン」はハキハキしていて死にそうにない。


どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である/奥村晃作

「地上スレスレまで空である」は単なる発見ではなく、〈空〉の意味そのものを書き換える発見なのだ。またそれは、単に「空」といえば〈空〉を指すとされる短歌理解の書き換えでもある。


獅子に会ふ喜びは誰に語るべきものにはあらず夜は白に来ぬ/春日井建

定型の韻律を内面化する読者ほど、「誰に語るべき……ものにはあらず」の逆転が強烈に感じられるはずだ。ひとりの夜が金色の獅子と明けはじめた銀色の空のなかで尽きていく。


名も知らぬとほきしまより流れつきテレヴィジョンあまた秋の浜辺に/小池光

テレヴィジョンが折り重なる浜辺が妙に美しい。「とほきしま」を映したテレビは、もうここでは何も映さない。いや日本の浜辺を反射しているか?


したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ/岡崎裕美子

「したあと」がだるいのではなく、「したあとの朝日」がだるいのだ。その朝日は自転車をも照らし、町全体をだるく沈めている。


大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり/花山多佳子

「大根」しかないのに人影がちらつく。立てかけた人がいるのか、あるいは大根が自ら立ちあがったのか。


泛き流れしつつはるけきユリカモメ流れの上に雪降りやみぬ/玉城徹

どこに雪が降っているのだろう? 水の流れもユリカモメも、すべてがはるかで、とおい。そのぼやけた景のすべてに雪が降っていて、やんだ。


日だまりにゆつくり言葉をえらびつつ猫は女と話しゐるらし/内藤明

ゆっくり言葉をえらぶ猫を、女は待ちつづけているのだ。なにもかも加速するいま、この遅さに強く惹かれる。


くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる/野口あや子

〈私〉の主観は隠され、主語に「くびすじ」が置かれている。「そらしかた」は元々知っていたのだ。恋によって言葉を与えられたその動作は、またこの歌によって読者の生に言葉を与える。


※1 なんだか生きものを詠んだ歌が多い。〈世界〉っぽいからだろうか。

※2 特集については東郷雄二氏のブログにも書かれている(リンク)

※3 対談から抜粋したツイートがやや反響を呼んだ(リンク)


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