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亡くなった母の姿と私の罪


母がなくなって14年程になる。とてもボランティア精神のある優しい母だった。
母が亡くなった時、年齢は92歳で私は57歳
以前から献体に登録してたので、お葬式が終わってすぐお迎えの車が来て、私はお見送りの時に皆がいる中で大泣きしてしまった。
それ程母に対して親不孝してしまった事を悔いていた。

観光客がたくさん来る土地柄で、母は近くの湧水のある場所を毎日お掃除していたそうだ。多分私がしでかした事に対する世間に対するお詫びのつもりだったのか。徳を積んでいたのか。いや母は昔から色々な徳を積んでるはず。
昔は私のために近くの神社で御百度参りまでしてくれていたと姉から聴いていた。今でも思い出すたび涙が込み上げて来てしまう。
お礼参りに姉と二人でだいぶ後になってから行って来た。
お産の時は無事生まれます様にと子宝神社に一人で出掛けていたそうだ。

人との出逢いは人生を180度変えてしまう。
昔から母の後ろにピタッとくっついといる様な子供時代の私。内気で皆の前に出る事が苦手な私を何とか治そうと学校の先生にお願いしてた事も後から知った
今考えるとそれが結構今の自分を作り上げたのでは無いかとも思っている。
生真面目で地道に歩んで来たはずの人生に、あるはずも無い家庭のある男性を好きになってしまったのである。その上駆け落ちまでしてしまった。
こんな人生は母にも私にも有るはずのない出来事だった。
私は地獄の苦しみにの中に足を踏み入れてしまったのだ。

生きていくために食べ物のお店を2人で始めた。人の為に周りも顧みず一生懸命頑張ってしまう私は主人にも同じ様に尽くし過ぎていた。
私はそれが当たり前だと思っていたのだから。尽くされる方はこれも又当たり前と思って次々に私を追い込んで行く。ヘトヘトになりながら仕事に子育てに頑張っている私に感謝の言葉も無い。必死で考える余裕も無かった。
それを裏切られてしまったのだ。

亡くなった主人の家系はお金の事で常に争いの絶えない家系。過去には相続財産の裁判までしていました。それを垣間見ていた私は子供達に昔から言い聞かせていた。喧嘩をしない様に仲良く暮らしてね。まぁ今は何とかそれを守ってくれてる様だ。
私が亡くなった後に家や資産を分けたり手続きが大変だろうと思い、思い切って去年家を売却した。スッキリした。

いまだにケチなのか節約する癖が取れずにいる。何しろあの母の後ろ姿をピッタリとくっついて見てきたからねー。
年金生活でも、あしなが育英基金に毎月寄付してたし、無くなる前には和裁が出来る姉に真っ白な死に装束の着物を縫ってもらってて、亡くなったら着せてくれと頼んでたのを後から知った。その事を知らないでいた私は母の最後の時にその姿を見てしまう。そんな母を裏切ってしまった私なので、亡くなってから心から詫びる以外どうしようもなかった。

忙しい中で毎月少しずつ送金をしていた。せめて洋裁学校の費用くらいはと思ったし、お詫びのつもりだった。母が亡くなった後片付けしていて、私が送った現金書留封筒がまとまって出てきた。全て手紙と一緒に取っておいたのだ。途中で送るの大変だからと郵便振替にしてもらった。母がもういいからと言うまで続けていた。

自分の犯した罪は必ず又自分に返ってくる。昔から知ってはいたけれど、実際に自分で体験してしまった。その当時心が壊れてしまって、精神科の先生には個人の苦しみまで分かるはずもなく、薬で落ち着かせるだけ。その苦しみを解ってくれない主人や周りの人達。頑張りすぎて心がパンクしてしまったのです。
だから言っただろう!という母の声が側で聞こえて来たりしてました。

今でも当時を思い出すと涙が止まらなくなってしまう。主人が亡くなって20年経ってもその傷は癒えずにいた。
主人が亡くなった後で、昔買ってもらっていた2カラットダイヤの指輪やローレックスの時計も全て売り払った!私の欲しいものはこんなものでは無い。形のあるものでは無いんです。と言いたかった。あとの祭。まぁ言っても分からなかったろうとは思いますがね。

私がこの世に生まれた意味。多分この世での修行の為かと思う事がある。
今一冊の本に巡り逢えて少しずつ心が癒えて来てる気がします。私も着物リメイクの趣味を通して何かの形で母の様に母や皆さんに何かをお伝えして恩返しがしていければ良いなと思っています。
周りの優しい方達に見守られながら頑張っていきたいと思います。

少しずつ良い本を読む習慣と、文章にする事の楽しさを今頃になって知りました。この本の出会いに感謝致します

「頑張り屋さんのための心が晴れる本」

まだまだ未熟ですが少しずつ変えていきたいと思っています。

精神科医 しょう先生 ありがとうございました。

                 感謝致します。

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