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教育者として

私は、現在教職について、生徒を指導しています。

これまで何人もの生徒と関わってきましたが、どれだけ生徒の力になれたかは分かりません。

中には、卒業後も慕って連絡をくれる生徒も何人かいます。
大変ありがたいことです。

私は、生徒にとって、ただただ愛をもって見守る教師でありたいと思っています。当然、悪いことをすれば叱ります。それでも、生徒のことを愛する教師でありたい。

私は、教育とは「愛」だと思っています。

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「教え子から遺書を送られた先生」

徳永先生は、熊本県の歴史始まって以来、30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが、

「教員の仕事は、教壇に立って教えることだ」

と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。

だから、どの学校に行っても校長に嫌われるんですね。

自分より実力が上なものだから。

それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど、行く先々で教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持って、みんなを勉強好きに変えてしまうんです。

徳永先生は、昼飯を食べない人でした。

なぜ食べないかというと、終戦直後、昼の時間になると、弁当を持ってこられない子供たちがさーっと教室からいなくなる。

それでひょっと校庭を見たら、その子たちが遊んでいたんです。

その時から、自分もピタッと昼飯を食べるのを止めて、その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。

以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ。

晩年になっても。

これは戦前の話ですが、

「明日は工作で切り出しナイフを使うから、持っておいで」

と言って、児童たちを帰したら、次の日の朝、

「先生、昨日買ったばかりのナイフが無くなりました」

という子が現れました。

先生は、どの子が盗ったか分かるんですね。

この生徒は、兄さんがすばらしく頭がよく、いつも家で比較されて、偏愛の中で冷たく育っておりました。

学用品を買うのにも

「馬鹿タレ、勉強もできんものが、何を金が必要か」

と叱られるのです。

「あの子ではなかろうか」と暗然とした徳永先生は考えて、

一つの方法をとりました。

昼休みの時間、中には運動場に出ない生徒もいますが、この日は、全員を運動場に出して遊ばせました。

それで、全員外に出して遊ばせているうちに、盗ったと思われる子供の机を見たら、やっぱり、持ち主の名前を削り取って、布に包んで入っていました。

先生は、すぐに学校の裏の文房具屋に走って、同じナイフを買い、盗られた子の机の中に入れておきました。

子供たちが教室に帰ってきた時、

「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」

と言うと、

「先生、ありました」

と。

そして、

「むやみに人を疑うものじゃないぞ」

と言うんです。

その子は教室の一隅から、うるんだ眼で先生を見たといいます。

それから時代が流れ、戦時中です。

特攻隊が出陣する時、みんなお父さん、お母さんに書くのに、たった一通、徳永先生への遺書があったのです。

それは、あの日、ナイフを盗った子からのものでした。

「先生、ありがとうございました。

 あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を送りたいと

 思うようになりました。

 明日は、ポーランジャの空で僕は見事に戦死できると思います。

 その前にたった一言、先生にお礼を申し上げたい。

 あの時に、先生はなんにも言わないで僕を許してくださいました。

 死の寸前になってそのことを思い出し

 『先生ありがとうございました』とお礼を申し上げます。

 どうぞ先生、体を元気にして、

 僕のような子どもをよろしくお願いします」

というのが絶筆でした。

彼は昭和19年5月12日、ニューギニアのポーランジャの空中戦で戦死しました。

若冠十九歳でした。

教え子から遺書を残された徳永先生、愛しい教え子を死地に送り出さねばならなかったこの時代、徳永先生は、深い悲しみに沈みこみました。

徳永先生はあの時、自分が彼と同じ境遇におかれたら、これ以上の荒れ方をするだろうと考えたそうです。

「どうしてあの子を怒ることができただろうか・・・」

と。

今、その教え子の墓前には、先生が植えた八重クチナシが大きく育っています。

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私は、この話を聞いて、今の目の前の生徒たちに、十分な愛情を注ぐことができているだろうかと自問自答しました。

今、自分ができる最大限の教育。

それが、目の前の生徒のことを想い、生徒へ愛情を注いで、授業すること。

今一度、原点に立ち返り、教育者として胸を張れる仕事をしていこうと思います。

今日もnoteを読んでいただき、ありがとうございます。

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