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『心地よいアイロニー』

「優しいひとだね、いいひとだねって褒め言葉には、どうしたって皮肉が込められてるとしか思えないんだよね」
ガヤガヤと声が行き交う店内でそう語る彼女は、まさにそう、優しい人だ。職場でも請け負わなくて良い仕事まで背負ってあげてるのをよく見るし、人の悪口や陰口も言わず、いつも誰かをサポートしたり不満を聞いてあげる聞き手になってあげたり、誰から見ても良い人で、優しい人。ただ友達である私の前ではたまに毒を吐く。
「優しいね、良い人だね、なんてとりあえずの褒め言葉でしかないし、何よりそう言ってりゃ、何やらせても何言っても許されるような風潮が私は嫌い。優しい千鶴さん。千鶴さんは良い人。そう認定された側の私は、優しくて良い人で居なきゃいけないみたいな。皮肉なんて言葉じゃ甘すぎるかも。あれは呪いだよ」
「呪いて。大袈裟な」
届いたハツを口の中に放り込むと、プチッと音がして口内に旨味が溢れ出す。咄嗟にビールに伸びた手を、千鶴が軽く叩いて止めた。
「え、なに?」
「ゆきは今どうしてもこのビールが飲みたいでしょ」
「うん」
「美味しいつまみを食べたんだから、ビールで流し込みたい。自然な流れよね。そう、こんな感じなのよ、私も」
「なんの話?」
「悲しいことがあったから、『優しい千鶴さん』に慰めてもらおう、そんな自然な流れができあがっちゃってんのよ」
私が飲むことを憚られたビールを、千鶴は大袈裟な仕草で持ち上げて飲み干していく。クックッと、彼女の喉が鳴るのを聞きながら、いい飲みっぷりだなあなんて率直な感想を抱きながら、彼女の不自由な生き方を考えると気の毒だなと思う。
27にもなって、そんなつまらないことに縛られて生きなくてもいいのに。いや、27だからこそなのかもしれないけど。中途半端に大人になってしまった私たちは、いつのまにか自由に生きられなくなってしまっている。

「いっそ全部捨ててみて、新しい生活に乗り換えてみるとか」
非現実的な提案がするりと喉をくぐり抜けていく。ビールのジョッキを透けて見える、カウンターの壁に貼ってある手書きのメニューの汚い字が、妙に愛らしく感じた。
「もし私がその道を選んだら、ゆきとも会えなくなるけど、いいの?」
咄嗟に隣の千鶴を見る。彼女の伏せた目線の先には、何が見えているのだろう。
「……本気?」
「に、見える?」
千鶴は私を少しだけ上目遣いに見あげて、泣きそうな顔で笑った。リップに置かれた優しい色のピンクが目に着いて、本当はもっと強気な赤のリップメイクがしたいんだよね、と以前語っていたことを思い出す。すればいいのにと返した私に、あのときもそう、千鶴はこの顔で笑った。やさしくていいひと、な千鶴さんは万人受けする千鶴さんは、そんな不自由に縛られた彼女は、派手なリップメイクすら許されないというのか。その感覚が私にはどうしてもわからなかった。
「乾杯」
千鶴は間を開けてしまった私の答えを待つ前に、そう言ってジョッキを傾ける。倣うように私もそうして、やっと飲めたビールは、カラカラに張り付いた喉を潤していく。
千鶴がどんな顔をしてこの美味しいキンキンに冷えたビールを飲んでいるのか、気になったけれどその顔は見ることができなかった。もう一度あの悲しそうな笑顔をみてしまったら、私にはもうかける言葉が見つけられない。なんの縛りもなく、彼女よりも自由にビールを飲んで美味しいと思える私には、彼女の気持ちを理解してるフリをして慰めることさえ到底出来得ないのだ。

翌朝、若干お酒の残る重たい頭を抱えて出勤すると、妙にオフィス内がざわついていた。とまでいってしまっては言い過ぎかもしれないけれど、パッと目に入った、目を向けてしまった千鶴のデスクに、普段はいるはずの彼女がいないのを視覚して、私の胸中は明らかにざわついた。

「千鶴さんが、いなくなった」
数分後だった。
かけよってきた後輩がそんな言葉を震えた声で紡いだのは。

千鶴は、退職願なんてタイトルのコピペのような文面のメールだけ上長に送って、そのまままだ出社していないという。
事の経緯を話してくれた後輩は、終始震えた声でいて、けれどそれが悲しみや混乱からというよりは興奮の色を含んでいて、私は少しだけ嫌な気持ちになった。千鶴が、刺激のない平凡な日々のスパイスにされているようで、気持ちが悪かったのだ。
「ゆきさん、昨日千鶴さんと一緒に飲んでたんですよね? 何か聞いてないです?」
話を締めくくるように、これが聞きたかったという態度を隠さず、後輩は私に尋ねる。
背の低い彼女は、カラコンの入った不自然な黒目をギラギラと輝かせて私を見上げていた。その上目遣いが、昨日の千鶴の泣きそうな笑顔を連想させる。

「うん。なんにもきいてないよ」

お会計の瞬間まで、彼女のジョッキの底に残る黄色い液体を思い出す。
ぬるくなって、炭酸も抜けているであろう、飲み頃を過ぎたビールを、最後まで飲んでいけば?なんて私は言えなかったし、飲んであげることもできなかった。

『良い人で、優しい人』だったはずの『千鶴さん』はその日から、散々な言われようだった。
引き継ぎもなくバックれもよろしく仕事を残して消えていった彼女に対して、好感触なんて残らないのは、ましてや憎しみさえ湧いてしまうのは仕事仲間として当たり前のことかもしれかい。
けれど、彼女がいたときはこれでもかというほど持て囃していたというのに、当時の彼女の行ってきたいいことや優しさまで貶すのは違うはずだ。「こんな人だと思わなかった」からはじまって、「でもなんとなく、こういう節あったよね」なんて、今になって思い出したかのように嘘かほんとかわからない話を持ち出す。みんながみんな、誰にでも優しい彼女を求めたはずなのに、それを八方美人なんて言葉で揶揄する。
滑稽だなとすら思った。
ねえ、こんな連中に自由を縛られてたなんて、千鶴は不憫だね。心の中で唱えるように思う。

「ゆきさんも、実はそう思っていたでしょ?」

『社内で一番千鶴と仲の良かった』私は、そんな言葉を幾度かぶつけられた。何を期待して、どんな返答を期待してるのかは鈍感な私にもわかったけれど、その通りに返してあげるほど、私は優しくもいいひとでもない。

あの万人受けするピンクのリップ、千鶴には似合いすぎていて、そんな現実すら彼女には皮肉だったんだろうな。

「千鶴は、やさしくて、いいひとですよ」

真っ赤なリップをすればいい、なんて諭しながらも、私には彼女がそれを塗った姿を見ることも、想像することもできないのが悔しくて。
私だけは呪いを解かせてやるものか、と今は誰も言わない吐き出したその言葉は、渦巻く偏見の渦の中に溶けていった。


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