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若きサムライのために

あらすじ​

平和ボケと現状肯定に寝そべる世相を蔑し、ニセ文化人の「お茶漬けナショナリズム」を罵り、死を賭す覚悟なき学生運動に揺れる学園を「動物園」と皮肉る、挑発と警世の書。死の一年前に刊行された、次世代への遺言。

メモ

「芸術の政治化であり、政治の芸術家である。」

現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言える。

「日本の町は青年であふれている。そして東南アジアの国々を回ってくると、日本へ来て非常に驚く特色は、それら若い人たちが皆、ウォーリア(戦士)のように見えることだ。」

上記、イタリアの小説家モラビアが来たときに、三島に言った言葉。      三島は、危機というものが男性に与えられた一つの観念的役割であるならば、男の生活、男の肉体は、それに向かって絶えず振り絞られた弓のように緊張していなければならない。近頃緊張を欠いた目をあまりにも多く見る気がするが、取り越し苦労かもしれないと言っている。                    男性が平和に生存理由を見出すときには、男のやることよりも女のやることを手伝わなければならないとも。

「肉体について」

日本人にはヴィーナスもなければアポロもいなかった。日本人の女体の美しさが観音像のような中世的な美しさを離れて、本当の女らしい肉体性を獲得したのは、江戸の歌磨の海人の図などに初めて見られたものである。                                     日本人が美と考えたものは、美貌であり、あるいは心ばえであり、あるいは衣装の美であり、あるいは精神的な美であり、ある場合は『源氏物語』の中の美しい女性のように、闇の中でほのめいてくる香りのかおりであった。

近代以前のアジアでは、裸体を表すのは下賊な無教養な人たちであり、筋肉隆々たる男は下層階級の労働者出身と考えられていた。          武道の話ですると、宮本武蔵がどういう肉体をしていたかは想像することもできない。彼はただ、異常に深い精神的探求の中から生まれた哲学者としての一面と、武道家としての超人的な技術との結合体として見られているだけである。その間に介在した彼の肉体は無いもの同然と考えられていたのである。われわれは、いま二つの文化の極端な真ん中に立っている。

現在われわれの心の中には、日本的な、肉体を侮辱する精神主義が残っていると同時に、アメリカから輸入された浅はかな肉体主義が広がっている。肉体美というものはどうしても官能美と離れることができない、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考える美というものの宿命だからである。

「信義について」

学生時代に、約束や時間を守らなかった人間ほど、会社に勤めたり、いっぱしの社会人になると、自分の社会における役割というものの重さに次第に目覚め、と同時にそれを自分で過大評価して喜ぶようになり、社会の歯車である自分に満足してしまう人間ができあがりがちなのである。       そもそも守るというのは、約束の精神ではなく、信義の問題なのである。『菊花の契り』という小説は、非常に信じ合った友人が、長年の約束を守るために、どうしても約束の場所、約束の時間に行くために、人間の肉体ではもう間に合わなくなって自殺をして、魂でもって友人のところに現れるという人間の信義の美しさを描いた物語がある。その約束自体は、単なる友情と信義の問題であって、それによってどちらかが一文も得をするわけでは無い。その一文の得をするわけでも無いのに命をかけるということが、約束の本質であり、近代精神における契約社会の中には無いものである。


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