愛と哀しみのQVC②

第一章:最初はテレビ業界

 私の時代の就職活動は「超就職氷河期」と呼ばれ、内定をもらうのが大変だった。
 まだインターネットもなく、エントリーと会社案内の資料請求のために、
リクルートから送られてくる電話帳のような分厚い冊子についている各企業宛のはがきに氏名・住所・大学名等々を一枚一枚手書きで記入する。
本当に就職したいと思う会社には早い段階から便箋で丁寧な手紙を誂え、資料請求をする。
それだけして何十、何百とエントリーしたところで、
会社案内を送ってくれる企業は僅かだった。

 そんななか私はテレビ番組の制作プロダクションに入社した。
学生時代に報道の仕事をしたいという気持ちが強かったからだった。
当時の放送業界は就職活動が年明け早々には始まった。
 私の在籍した大学の学生でマスコミを目指す者は全くいなかったので、
就職課に参考になる資料もなく、自分で情報を集めるしかなかった。
 3月ころまでには在京キー局の試験は終わり、どこにも合格出来なかった。
いよいよ就職活動本番という季節に、もう自分の気持ちでは就職活動は終わったに等しかった。
とはいえ、家業があってそれを継げるという訳でもなく、仕事を探さねばならない。
 しかし、一般企業への関心は全くもって湧きあがらない。
 自分の性分として、皆がするから同じようにするという行為も大嫌いだったので、リクルートスーツで横並びで他の学生と説明会に出るのが苦痛で堪らなかった。
 余談だが、最近ニュースか何かで観たのだが、企業での面接で「あなたの個性はどんなことろですか?」と聞かれるが、そもそも十羽一絡げでリクルートスーツを着て会社を訪問する時点で没個性ではないか、ということだったが、全くその通りだと思う。

 そんなある日「制作プロダクション」という会社があることを知った。
放送局と同じようにテレビ番組を制作し、放送局で放送してもらう。
調べてみると実際に放送局でその局のプロパーのスタッフと変わらず番組を制作するものもあるようだ。
一般企業も一応”おさえ”にしながら、制作プロダクションをメインに切り替えて新たに就職活動を行った。
 しかし、その世界も私と同じように、放送局に落ちてなおマスコミで働きたい人たちの集まりだったので、より競争人数が増え、却って倍率が上がりなかなか内定はもらえない。
しかも募集人数が放送局よりも少ない。
 そんななかで、一社だけ第一希望と考えた会社の選考に残っていた。
 そして、運よくその会社に内定をもらった。10月の初めか中旬だった。
 念願のマスコミへの就職が叶った。
 最初は勿論、ADからのスタートだった。
 休みもない、時間も不規則なのは覚悟のうえで仕事に臨んだ。実際には、それほど所謂世間のイメージほどにシビアではなかったが。
 しかし、大相撲の徒弟制度のように、ADは所詮ADで、使い走りで、ディレクター・プロデューサー、技術スタッフの下邊のようなものだ。
ある番組のロケで八ケ岳にカメラマンさんのカメラを担いで登ったとき、
途中両足の歩幅くらいの絶壁の道があり、ちょっと足が滑った瞬間、
「カメラとレンズを守れ、お前が死ね!!!」と怒鳴られた。
ちょっと気が利かないと夜に延々とディレクターの説教が続く。
飲みの席ではお酒を注いで常に気を張っていないといけないが、自分がお酒が飲めないから元々そういう場に慣れていないうえ、性格上全く気が利かないので、それについても宴席終了後に延々と説教。そんな世界だった。
 若干話は逸れるが、仮編集に立ち会っているとき、ディレクターから「〇〇のカレーを昼食に買ってこい」と言われたが、その店が分らず、違う別のカレーを買ってしまい、「俺の口は〇〇のカレーの口になっていたんだ!!」とある意味理不尽な説教を受けることもあった。

 この会社を志望した動機の中にTBSで月一回、夜中に地味に放送している日米問題を主に扱った議論をする番組があり、報道志望だった私は面接で「この番組を担当したいです」と訴えた。面接した会社の先輩たちは珍しい輩だと思ったようだ。
 大体がドキュメントやスポーツの番組の制作を希望してこの会社に入る。
そんな中でこの番組は総合プロデューサーがとっつきにくい人で、専任でADをする人材が、それまでいなかった。そんな番組を「やりたい」というのだから奇異に映ったのだろう。
 入社後は希望通り、その番組の担当となり私自身は楽しんで仕事をした。
学生時代に読んだ本の著者や政治家、実業界のご意見番が毎回ゲストで議論をする。
 件の総合プロデューサーは、それはとっつきにくい人物ではあったが、私自身は彼に何か嫌な気持ちを持つことなどなく、飄々と接して、毎月一定額の会社への売り上げに貢献していた。
 多分私がこの番組の担当を一番長く務めた人間だろう。

 1997年にスカパー!の衛星が打上げられ、CSの衛星放送が始まった。
ある日、そのスカパー!の無料放送帯域のチャンネルで放送する通販番組の制作を会社が受け、私にADでつけという指示が出た。
 大手百貨店がベンダー(商品提供者)の30分番組を数本制作、ディレクターはそのため二人体制だという。だが、彼らにつくADは私一人だけ、とのことで、通常の番組制作の二倍分の労力で臨まねばならなかった。
先に記した日米番組も担当していたので、私がこの仕事に合流したのはMCの収録と商品の映像を撮り終えて編集に入る段階からだった。
 編集ではそれらの映像を収めたテープを入れ替える作業などでディレクターに付きっ切りになる。一人が終われば通常は一緒に一息つけるのが、続いてすぐもう一人のディレクターが作業に入るので休みなく同じことを繰り返す。
 その間にも、テロップを写植屋さんに発注し、フォントや誤字がないかFAXでゲラチェックをしてやりとりをする。通販番組だったので、商品名や商品番号、価格の数字など、その数は多く大変な作業だった。
土曜日の朝に出勤して、終了したのが翌週木曜日の朝。その間、一睡もしなかった。
うたた寝や、ちょっと落ちる、ということが本当に全く一切無かった。
全くこの間寝ずに働きづめだった。
 食事も店屋ものばかりで、後半は油がきつくて完食できず体が野菜を異様に欲していた。
 働き方改革などと叫ばれる今ではこんなことをしたら大問題だろう。
自分もまだ若かったからこんな仕事ができたと思う。

 その後、日米関係の番組の制作を会社が終了することになり、それと同時にTBSの情報番組へ配属された。そこで毎週生での放送の番組を担当し、毎日がより過酷でもあり大変ながら楽しくもあるが、やはりしんどい日々になった。
 そして思うところがあり、一番信頼できる上司と相談し結果、私は会社・マスコミを辞めた。
 超就職氷河期と言われ奇跡的に拾ってもらえた最後の一社だった、諦めずにマスコミを狙い続け就いた仕事だったが、そういう思いを全く振り替えられないほど何かが自分の中で疲弊していた。

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