知らないことの怖さ。


戦争について、私は何一つ知らない。

おばあちゃんが語った「あんなひどいこと絶対に繰り返してはいけない。」

そのたった一言だけしか知らない。


中学の教科書で習う、「戦争」「原爆」「B-29」「硫黄島」・・・ただ単語が繰り返されるだけだった。真っ黒焦げになった兵士や防空ずきんを被り防空壕で身を潜める家族、たくさんの数の人の命がなくなったという教科書の事実を見て、酷い出来事だったんだ。中学生の私はそんなことしか理解できなかった。

・・・・

とあるきっかけで、第一次世界大戦とは?第二次世界大戦とは?と思い、調べ始めたのだが・・・

「私は、何を勉強していたのだろう?」

中学では、勉強はできる方だった。でもあれば学びではなく、単語暗記だったことをまざまざと思い知らされた。

そもそもどうして世界中で戦争になったのか?戦時中の人たちはどんな気持ちだったのか?(もちろん今でもそこはわからないが) どうして原爆が落とされたのか?何ひとつ理解しようともしていなかった。何ひとつ知らなかった。ましてや、理系を選択した私は、昔の歴史を学んで何になるのか?とまで思っていた。

知らないことを恐怖だと思った。色々と勉強をしていくうちに涙が出てきた。戦争が怖かったからではない。(もちろん怖いけど、想像上の戦争を怖いというのも何か他人事だと思った。)

一番怖いと思ったのは、知らないことだった。

そして、知った気になっていたことだった。


たくさんの見解があると思うから、あまり戦争に深く突っ込むのはやめておくけど、稚拙な言葉になるが世の中には知った気になっていて、知らないことがたくさんある。

それなのに世間一般の声に同調するように、知らない事柄に対して同じ意見が自分の心の中にあることは不健全だと思った。


ちゃんと自分で知って、自分の心で考えたい。

知ることは、他人への理解だけではなく、他人への理解を通して自分への理解につながる。他人との同意・差異を改めて認識することで、自分という輪郭が徐々にはっきりするのだと思う。

逆に言うと、知らないことに何も意見を持ちたくはない。(語弊があるかもしれないけど、例えば「あの人〇〇教らしいよ、やばいよね」みたいな感じ。〇〇教を理解した上での意見を言っている人はどのくらいいるんだろう・・・。)

知っていくことも大事だけど、知らないことの方が世の中には多い。

知らないことに出会った時、知る努力も大事だけれど、知った気になって我が物顔で意見を言うことほど恥ずかしいことはないと思う。


何が言いたいのか分からなくなってしまったが、戦争は思っていたよりも人間の脆さが全面に出ていたものだったし、今の世界とのギャップに驚き・恐怖を感じた。そして、過去を学ぶことは今を学ぶことであり、歴史を学ぶことは今の自分を学ぶことであるということに気付かされた。


今日はこのくらいにしておきます。

また今度。

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