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通天閣の下の赤ちゃん 第二話

 ナポレオンは大変な年寄りで、ヒロシは孫みたいなものだった。なんでこの老人が小学校三年生のヒロシの親友になったのか、不思議だが、気分が余程合うのだろう。多分そうにちがいなかった。

 二人の家は商店街本通りで向かい合う薬屋と喫茶店で、ヒロシは木野薬局の子供、ナポレオンは喫茶店ホマレの経営者であった。ヒロシが好物のポンカンジュースを日に二、三回飲みにいくうちに、だんだんと仲好しになったということである。

 相談に来たヒロシに、まず「逃げろ」とナポレオンが言ったのは、それなりの理屈があった。この老人は激戦地二〇三高地に参戦した、奇蹟の生還者である。あの戦場は逃げるに逃げられない。退却が皆無のため、部隊が全滅した戦場であった。逃げる選択が絶無の場を体験したナポレオンだったから、彼の人生観で、そう忠告したのである。

 ヒロシは子供らしい子でないところがあった。普通の子供にはない、珍しい大人のような子供になってしまったのは、弟の死が関係するのだが、その経緯は後でお話ししましょう。とにかく、ヒロシが大人のような頭脳の子供だったから、老人ナポレオンの話し相手になり、意思が通じ合ったことだけは確かなのだ。

ヒロシはナポレオンの日露戦争従軍談義を、暗記するまで聞かされていたが、それでも聞くのが好きだった。

 それを代わって申しますと、語り慣れた節回しの講演調でした。「トテチテ、トテチテ、トテチテ、タアッタアと突撃ラッパの口真似から始まります」

 バッタバッタと先頭の兵士が倒れ、死骸の山ができる。それをのりこえ、のりこえ進む兵士は誰も二〇三高地の頂上に行けるとは思っていない。自分が死骸の山の一つになることだけははっきりと判っている。そして、きっとその死体の山が階段のように積み重なってゆけば、最後の兵士だけは屍を辿りながら山頂に到達するだろう。そう信じて全員が礎になって戦死するしかない。

 なにしろ、乃木さんの軍隊は突撃ラッパしか鳴らないのだから、仕様がなかった。 

 兵士たちは銃剣を構えながら斜面を突進する。怯む余裕はなかった。誰も彼もが目を剥きだして発狂状態の興奮の絶頂で駆け出した。

 ロシア軍塹壕の機銃掃射は一斉に火を吐いた。カタカタという乾いた連続音と同時に日本兵の将棋倒しが始まった。まるで屠殺場である。何故、順番に死ななければならないのだ。逃げも、隠れもできやしない。突撃とはそういうものかとナポレオンが絶望した時、目に入ってきたのは別の死に方であった。

 前方で土煙が上がり、硝煙のたちこめた上空から、バラバラと手、足、胴体が落下してくる。「ああ、カノン砲だあ」と誰かが引きつった叫び声をあげた気がした。途端、轟音とともに天地が震動し、真暗闇になって、すべてが裂けた。大量の土砂雨が強力な圧力でのしかかり、瞬間、躰は地面に叩きつけられた。


第二話終わり  続く

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