外道照身霊波光線
昼食時、ちひろの生まれた家に行きたい、あの優しい雰囲気に包まれたい、と思った。
優しい雰囲気の中でなら、僕は、ずっと絵を描いていたかもしれない、と思った。
しかし、僕の魂は、僕を厳しい道へ誘(いざな)った。
そして、物事の本質を見る眼が養われた。
本当のものが見えてしまう。
本当のことがわかってしまう。
もちろん限界はあって、なんでもかんでも見えるわけではないし、なんでもかんでもわかるものではない。
でも、今でも、必要十分な範囲を超えて見えてしまうし、わかってしまう。
一見よさそうなこと、一見優れていること、一見正しいことが、実は、あってはならないこと、なんてことは、ザラにある。
見えてしまい、わかってしまうと、良いことなんてひとつもない。
人との折り合いの悪ことといったらありゃしない。
だって、見られたくないもの、知られたくないことを知られてしまうのだ。
敬遠されること甚だしい。
正しいことなんて、誰も求めてはいない。
さて、この、見える、わかる、を、誰かのために使うことなんて、できるのかしらね。
見える、わかる、は、ただ単に生きづらいだけ。
霊能力を持っていて、いろんなものが見えてしまう人などは、軒並みそう言っている。でも、そういう人たちは、霊能力を、たとえば、行方不明の人の探索などに役立てている人もいるし、警察などは、頼りにしている、という場面もある。
しかし、僕の、「物事の本質を見抜いてしまう」は、霊能者の、そういう、使える能力でははく、誰にとっても、煙たいものでしかない。隠し事ができないんだから。
これを書いていて思い出した。
「外道照身霊波光線」
まさにそんな感じ。
厳しい道を歩んで、「物事の本質を見抜いてしまう」ようになったのだから、何かに役立てたいものだが。
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