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料金後納郵便の封筒

料金後納郵便の契約をするときには、一定期間の間に使用する数を決めなければならない。

僕の昨年の契約では、2年間で200枚。

そして、契約が成立したら、200枚の封筒を印刷する。

2年ごとに、新しいバーコードだの、所定の事項を印刷した封筒が200枚、オフィスの書庫に納品される。

その時から2年後に、200枚の封筒が何枚残っているかは、その時々のいろいろな条件によって変わってくる。

仕事の数が多ければ、それだけ多くの枚数を消費するし、仕事の数が少なければ、消費する枚数は少なくなる。

料金後納を利用し始めたのは、田舎の役所がなくなった2012年。

その当時は、2年間で400枚の契約をしていた。

その後、仕事の数は減少し、2回目の契約が終了したときには、100枚以上の封筒が、つかわれないまま残ることになった。

すぐに捨てるつもりだったのだが、母が残しておくことを主張したので、残しておいた。

ところが、母は、残しておくだけで管理しない。

管理しない封筒がどうなるかというと、くしゃくしゃの、ぼろぼろになってしまうわけで、そんな使えなうなってしまった封筒が、大量に残っていた。

母の歩行が困難になって、朝のゴミ出しを僕がするようになって、約半月。

今日は、再生できる紙資源のゴミの日だったので、その残っていた封筒を、ぜんぶ、紙資源のゴミとして、収集に出した。

母が足腰を痛めて行動範囲が少し狭まり、僕の行動範囲が少し広がったことで、僕の理想を実現できる範囲が少し広がった、ということになる。

ちょうど、空にかかっていた雲がすこし晴れて、隙間から青空が覗くようなものかもしれない。

この世においては、あらゆることがそういうものだ。

なんとなれば、あらゆるものごとが、物質を通してでなければ実現できないからだ。

物質は、モノは、ひとつの場所にひとつしか収まらない。

別のモノを収めようとするには、そこにあるモノがなくなって、収める場所ができないといけない。

あらゆるものがそうだ。

世界を席巻している、金と、権力と、快楽を至上とするこの雰囲気が払拭されない限り、優れた考え方や優れた行動が敷衍されることはないのかもしれない。

しかし思うに、母が歩行に困るようになったように、その雰囲気だって、いつまでもそこに留まっているものではなく、いつかは減退し、払拭されてゆくものだろう。

昨日は、階段を登ることが困難になった母が、2階にあるトイレットペーパーとティシュペーパーを取ってきてくれ、と言った。

その部屋には、買いだめをしたトイレットペーパーとティシュペーパーが、山積みになっている。

もしや、と思い、山積みを少し崩して、山積みの一番下になっているモノを取り出してみた。

そうしたところ、案の定、上に乗せられたモノの重みで、ひしゃげていた。

ほかにもある。

洗面台の引き出しが、引っかかって引き出せないくらいに一杯に詰まっている歯ブラシ。

扉を開くと、崩れて溢れてくるほどに一杯に詰め込まれた洗剤。

もう、モノを溜め込む時代は終わりなのに。

モノを溜め込むために必要な、金と、権力と、快楽も、要らない時代なのに。


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