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某新聞の今朝のコラムを紹介する。日本語、とりわけ和語に関することだ。

生活費を稼ぐ仕事として法律を取り扱っている僕は、日常的に法律と法律用語を取り扱う。

法律、そして法律用語は、難しい専門用語の中でもとりわけ難しいと感じている人は多いことと思う。

いや、簡単だよ、という人のほとんどは、用語の意味を取り違えている人が多いことと思う。

例えば、日常的によく使われる語に「責任」がある。この語は法律用語だ。そして、その意味を正しく理解している人は、ごく少数に留まることだろうと思う。なんとなれば、それは、「責任」の意味を知らない法律専門職が多いことから、日頃法律と法律用語を取り扱わない人たちの中で、この語の意味を知っている人は、法律専門職よりもずっと少ないことだろうと思われるからだ。

さて、法律用語は外国語である。明治維新の後、列強に伍するために法律を作らなければいけなかった。そうして、外国の法律を真似て民法が作られた。

「責任」は、responsibility を当てた語だ。その意味の説明は他に譲る。

外国語、例えば英語であるが、英語を聴いたり話したりすることは、学校の試験の答案を作るということとはまったく違う。

日本人の中には、英語を聴いて、頭の中で日本語に訳して、意味を理解する人が多いことと思う。でも、それでは英語を聴いていることにはならない。

言葉を受けた時に、自分の魂の中にその波動が伝わってこなけばいけない。

ここで「聴いた」ではなく「受けた」と書いたのは、言葉は、耳で聴くだけでは足りないからだ。言葉は、全身全霊で受けるものだ。そうしないと、受け手は、話し手の思いを満足に受け取ることができない。

言葉には、その言葉を使う民族の歴史や生活や自然や、ありとあらゆるものがぶら下がっている。日本人にとって、和語は、それを話して受ける時に、自分たちのそれらのものを交換している。

外国を旅行し、あるいは住んでいる、多くの人たちは、その現地で話されている言葉が、自分の魂に直接響く経験をしたことと思う。それがあって初めて、言葉を理解することができる。

あるウェールズ人が僕たち複数の日本人に問うた。「beautiful は主観的な語か、それとも客観的な語か」。そこにいた複数の日本人は口を揃えて「主観的な語」と言ったが、正解は「客観的な語」だった。

英語で、「beautiful」という語を受けて、頭の中で「美しい」と翻訳して理解したのでは、意味を取り違えることになる。「beautiful」は「beautiful」とそのまま受けなければいけない。

日本人同士でそれができるのは、和語、やまとことばだ。

言葉にぶら下がったものを大事にして、子へ、孫へと、受け継いでゆくために、日本語を大事にすることは肝要だ。

幼いうちから英語を学ぶことには、日本語が疎かになるかもしれないというリスクがある。

もちろん、日本語も英語も、そのほかの語も、十分に会得できる子もいるだろう。でも、そんな子は、ごく少数ではないだろうか。

推敲、校正しないで note する。これができるのが note の良いところ、とは、身勝手な主張だろうか。

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【越山若水】2019年6月12日

小説家の田辺聖子さんの訃報によぎる軽妙な金言がある。「ひらかなで考えたらええねンよ。ひらたい言葉で伝わることはほんまは多いから」。その真意がいまひとつ測りかねるとき、格好の解説書になる本をご紹介したい。

令名はすっかり周知されただろう。「令和」の元号を考案したとされる万葉学者中西進さんの「ひらがなでよめばわかる日本語」(新潮文庫)。そもそもの日本人の心を知るのに「まず漢字を取り払ってみましょう」と勧めている。

歯と葉と端。漢字でかけば別物ながら、古代の日本人は皆おなじものと見なして「は」といった。それぞれがある位置や役割が似かよっているからで、形態が違っていても区別しない。そんな考え方だったそうだ。

遠い昔の人々が「幸せ」をどうとらえていたのかも、福井人なら知りたいところ。手がかりは古語の「さきはひ」にある。「さき」は「咲き」。「はひ」は「あぢはひ(味わい)」などと同じで、ある状態が長く続くこと。二つが合わさって、花が咲き満ちている状態を指す。

幸福度日本一の県に住んでいても「幸せって何?」と聞かれると口ごもる。何となく満たされた気分? いやいや、心の中が花であふれているように感じることだよ。そんなふうに、祖先たちは考えていた。幸福観に限らない。頭でっかちでない「きわめて具体的」な感覚にあこがれる。


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